聖武帝の足跡、眉間寺跡。
眉間寺遺跡碑の特徴
眉間寺跡には聖武帝を奉る石碑があります。
958年に化人が現れた伝説があります。
奈良時代に建てられた歴史的な寺の跡です。
眉間寺(みけんじ)は聖武天皇関連の事物を祀るために奈良時代に建てられた寺である。律宗佐保山眉間寺が正式名称である。聖武天皇御願行潜僧都開基と伝えられ、元々は眺望寺という名であったが眉間寺に改められた。平安時代に本尊の眉間から光明を発したから眉間寺と呼ばれたらしい。そして明治時代の廃仏毀釈の際に廃寺となったと言う。また眉間寺は東大寺戒壇院の末寺であったため、所蔵していた仏像は東大寺に引き取られたという。現在残ってもいるのは、礎石と写真の石碑だけである。寺は、松永久秀の多聞城建築で移転し、多聞城破壊に伴い、更に江戸時代にも移転しているらしい。
廃仏毀釈により、廃寺となったお寺のあと。何らかの説明が添えられていてもいいように思いますが、この石碑のみです。このお寺に祀られていた仏像3体は、東大寺ミュージアムで展示されていることがあります。眉間寺が廃寺となった後は、東大寺に移され、釈迦・薬師両像は勧進所阿弥陀堂内奧の左右壇に祀られ、阿弥陀像は収蔵庫に安置されているようです。
第45代聖武帝が756年に崩御したあと、菩提寺として眉間山(多聞山)に東大寺戒壇院の末寺"眺望寺"が建てられたのがはじまりで、958年頃に"化人が現われて眉間より光明を放つこと半時ばかりにして化し、その跡に舎利2粒があった"ことで勅命により"眉間寺"と改めた。1559年に松永久秀が大和国の支配を目指し、眉間山に多聞山城を築城したため、眉間寺は佐保川沿いに移されたが、信長に反旗を翻したため、信貴山城の戦いの前、1576年、信長は筒井順慶に多聞山城を廃却させたが、眉間寺は存続し、1791年の大和名所図会に本堂、観音堂、多宝塔や鐘楼が建つ伽藍が描かれている。しかし、明治初期の廃仏毀釈で廃寺に追い込まれ、寺宝は東大寺に移され、寺跡にこの碑が建っている。24/01/21、鴻ノ池から聖武天皇陵を経て、転害門あたりを散策した際、この碑を見た。よく存じなかったが、この碑のおかげで歴史を一端を知ることができた。
| 名前 |
眉間寺遺跡碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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眉間寺跡の石碑があります。ロートスタジアムに抜けるときに通りました。天皇陵古墳に近いお寺でもなくなることがあるのですね。そう思える記念碑です。