勝頼公の思案石、幸運の源!
武田勝頼公腰掛石の特徴
武田勝頼公が思案した思案石という歴史的スポットです。
迎えを待ち続けた地である天目山の由緒ある場所です。
勝頼公が小山田信茂の裏切りを知ったとされる境地です。
武田勝頼は戦国時代の武将、武田信玄の四男で、1573(天正1年)の信玄の死により、武田家の当主となります。その2年後の1575(天正3)年、三河の長篠城を攻めますが織田信長と徳川家康の連合軍に大敗し、徐々に勢いを失っていきました。 1582(天正10)年、織田軍が甲斐への侵攻を開始し、新府城(韮崎市)を棄て追い詰められた勝頼はこの石に腰かけて敵の動静を伺ったとされます。その後、勝頼は甲州市大和町の天目山で一族とともに自害し、武田家は滅亡しました。国道から細い道を登っていくと集会所の裏手にひっそりと腰掛石があります。
見つけづらいところにあります。
意外や意外幸運を呼ぶパワースポットですよ!
勝頼がここで何を考えていたのか、小山田信茂の裏切りをここで知ったのか?切なさも感じます。民家の敷地内の片隅にあり、少し分かり難いかもしれません。
武田勝頼公天目山記所縁りのスポットガイド勝頼公が七日間迎えを待ち続けた地で思案石と呼ばれています。
甲斐大和に、追われて来て休んだところが、それらしい、どんな気持ちだったんだろうね。
鶴瀬か駒飼に逗留した勝頼は小山田信茂からの迎えを待つ間、あるいは小山田信茂の裏切りを知った後に傍らにあった石に腰掛け進退を思案した。
追い詰められた勝頼はここで何を考えていたのか?義信騒動ののちに躑躅ヶ崎に呼ばれ孤立していた時、親身に声をかけてくれ勝頼の兄役とも言える小山田信茂に裏切られた勝頼の無念を感じました。
民家の敷地内にあります。見づらいですが、石に薄らと武田菱が見えてました。
| 名前 |
武田勝頼公腰掛石 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
武田勝頼公が新府城から郡内の岩殿城へ落ち伸びる途中で腰掛けた石とのことです。村営住宅の脇にありますが誰でも入ることができ、実際に腰を掛けることもできます。思ったより小ぶりで、高さもそれほどありませんでした。史料によって落ち伸びる先が郡内に決まった経緯は異なりますが、いずれにしろ小山田信茂は先に自領に家臣を走らせて、自身は勝頼公に同道したそうです。3月3日の早朝に新府城を出て大善寺に宿泊。3月4日早朝、大善寺を出て駒飼に。ここで小山田領からの迎えを待ちます。3月7日夜、迎えが来ないことから小山田信茂は母を連れて先に領内へ。「理慶尼記」によると、この離脱は密かに行われたものではなく、勝頼公の許可を得ていたとのことです。その代わりに小山田信茂は自身の従兄弟で、勝頼公お気に入りの小山田八左衛門を派遣。3月10日、依然迎えが来ないことから小山田八左衛門に催促に行かせるが、八左衛門は戻ってこず。ちなみに「甲陽軍鑑」では、勝頼公はこの時に小山田信茂の母を八左衛門に引き渡したとあります。仕方なく他の家臣に様子を見に行かせたところ、小山田軍に行く手を阻まれ謀反が発覚したそうです。この腰掛石に勝頼公が本当に腰を掛けたとするなら、3/4から3/10の期間のどこかで、ということになります。