義を貫いた親子の地、函館。
中島三郎助父子最後之地の特徴
幕末の理想を追った親子の最後の地で、歴史的意義があります。
箱館戦争の舞台として訪れる価値が高く、探訪には最適です。
地元の町名の由来となった親子の物語に触れられる場所です。
この中島三郎助って侍がほんとに大好きでぜひ来てみたかった場所です!
①箱館戦争の舞台の一つ。②千代ヶ岡陣屋を守備していた中島三郎助と息子二人がこの地で戦死したという。③中島三郎助は神奈川県浦賀生まれ、浦賀奉行配下の役人であり、1853年(嘉永6年)、三浦半島浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込み、ペリー提督らと直接応接して、日本外交史で重要な役割を果たします。1855年(安政2年)に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方に就任。明治維新後、榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道にやってきました。箱館戦争当時中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。新政府軍は箱館を制圧すると降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死。「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。現在、中島三郎助父子にちなんで千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名づけられ、この地に慰霊碑が建っています。また、地碑周辺にはクロフネツツジやミツバツツジをはじめ、季節の花々が植えられ、地域の方々によって常に整備され、訪れる人の心を和ませてくれます。
静岡に残されていた妻は、清水の次郎長さんの助けで乳飲み子をりっぱに育て上げたとのこと。孫に当たる方は産婦人科のお医者さんになったそうです。中島父子の無念を晴らせたかもしれません。
義を貫いた親子。
戊辰戦争終結150周年記念モバイルスタンプラリーで訪れました。中島三郎助父子最後之地を前に箱館戦争で夫と愛息を失った母妻の胸中を想うと胸が締め付けられる想いでした…泣。
母の実家から徒歩で5分。僕も中島町生まれ。少し前まで横須賀に住んでいました。勝手に運命的な感じがしました。
函館、幕末維新探訪!私心ではなく、忠義を貫いた兵たち!
道の真ん中にある。つい手を合わせるよね。
町名の由来にもなった親子です。
名前 |
中島三郎助父子最後之地 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0138-27-3333 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.7 |
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幕末、理想を追い続けた親子の最後の地。ぜひ足を運んでください‼️