諏訪神社の歴史を知ろう。
諏訪神社 本殿の特徴
1736年に富士講により建立された本殿は歴史的価値があります。
1927年に焼失した過去を持ち、再建への思いが込められています。
拝殿の奥にひっそりと佇む、特別な場所として魅力的です。
2025.7.19拝殿の奥にある小さな建物は本殿で、1736年に村上光清を中心とした富士講により建立されましたが、1927(昭和2)年に焼失してしまいました。現在ある本殿は1976(昭和51)年に再建されたものです。
| 名前 |
諏訪神社 本殿 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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書により「諏訪神社」について調べてみます。「諏訪の森」に元々鎮座していたのがこの「諏訪神社」で、後に「北口本宮の浅間明神」が勧請されたといいます。このため、古くから地元の産土神(うぶすながみ)として「諏訪明神」の名で親しまれてきました。__________❶【参考 甲斐国志 1814年】諏訪明神 上吉田村上吉田村の産土神(うぶすながみ)です。[諏訪明神の祭礼]7月22日の例祭では、神輿が「富士山の御影(お姿)」として渡御します。昔は、毎年「新倉村(現在の富士吉田市新倉)」の人たちが、祭りの日に富士山の形を作ってそれを「御影」と呼び、頂上に綿を被せて「雪」に見立てていました。大勢の少年たちがこれを担いで登ってきて、神輿の後ろに続いて行列したものです。今はその習わしはなくなりましたが、代わりに「木で富士山の形を作り」、神輿と一緒に仮殿(お旅所)へ運ぶようになっています。祭りの前日の「丑の刻(深夜2時頃)」、神輿は神職である「佐藤上総(さとう かずさ)の邸宅」へと向かいます。神主の「小佐野伊勢」と「佐藤上総」は馬に乗ってお供し、御師(おんし・師職)たちも正装をして列に加わります。その夜、このあたりでは皆が「笧松(ささまた・大松明(おおたいまつ))」を焼きます。その長さは1丈(約3メートル)余り、太さは一抱えほどもあり、それらを道路に並べて立てて火を灯します。その光で村の中は昼間のように明るくなり、参拝に集まった大勢の人々がその間を行き交います。翌日、神輿が戻る際には「御鞍石(みくらおいし)」という場所でしばらく留まり、神へ幣帛(へいはく)を捧げます。「上松(あげまつ)」という場所に来ると、神主をはじめ供奉の者たちが声を張り上げて、次のような神歌を唱えます。「すはのみや(諏訪の宮) みかげやぃよう かみさいそう(神在相) かみけ(神霊)にもさふらやいよう かみ(神)もさふらう」(※1)しばらくこの歌を唱えながら「上松」の周りを3回まわります。神輿を据えると、一同が声を一つにして「たてくら」と3回唱えます。しばらく太鼓を打ち鳴らし、祝詞をあげた後、神輿は本殿に入り、祭りは終わります。およそこの村では、身内に不幸があった者は一般的な忌引(きびき)の決まりに関わらず、たとえ前年のことであっても1年間は参拝を控えます。祭りの前の7月17日や18日までに村の外へ出かけ、祭りの日には村に居てはいけません。家で松明を焚くことも許されず、祭りが終わってからようやく家に帰ります。これを「てまに出る」と言います。もともとこの諏訪明神は「佐藤上総の家の氏神」でしたが、今では村全体のお祭りとなっています。ここには、鳥居彦右衛門、同久五郎、加藤作丙、浅野左衛門佐などの書状が9通伝わっています。(※1)[神歌の内容] 所説あります「諏訪の宮の、尊いお姿(神輿)でございますよ、神様が今ここにおいでになります、神聖な気配が満ちております、神様がいらっしゃいます。」[神領と山林]神領 2.3ヘクタール(※1)(2町3反6畝)山林は南北に1.6キロメートル(15町)東西650メートル(6町餘)※1(サッカーコート3面分・東京ドームの半分)[御神体と社殿]御神体は「掛け鏡」です。社殿には、本殿、幣殿、拝殿、が備わっています。[境内末社]境内には次の末社が6座祀られています。下諏訪、牛頭天王、稲荷、子宮、風宮、東照宮[神職と例祭]神職は 「佐藤上総」が務めており、「浅間明神」の師職を兼帯しています例祭は7月22日に行われます。