名将松平伊忠の魅力、深溝城の歴史。
松平伊忠戦死之地の特徴
三河国・深溝城の歴史的遺産を堪能できます。
長篠合戦に参加し、名を馳せた戦死者がいます。
松平伊忠は徳川家臣で有名な武将です。
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徳川軍の武将。深溝松平家、深溝城主。鳶ヶ巣砦襲撃が成功し、撤収する武田軍を追撃するも、返討ちに遭い討死した。
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| 名前 |
松平伊忠戦死之地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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徳川家臣・松平伊忠は三河国・深溝城主で、長篠合戦における織田・徳川連合軍の戦死者の中で最も名の知れた武将です。有名どころでは元亀元年(1570年)の姉川合戦や元亀3年(1572年)の三方原合戦など主要な合戦のほとんどに参戦しており、徳川家康公初期の功臣として活躍しました。「松平記」によると、長篠城を囲む武田軍の鳶ケ巣山砦への攻撃隊に参加したのは酒井忠次、金森長近、松平伊忠らで、この攻撃で連合軍も300人が討死、200人が負傷したとのことです。戦死者に松平伊忠の名前が出てきます。「寛永諸家系図伝」の中に逸話があり、松平伊忠は鳶ケ巣山砦攻撃に向かう前に嫡男・家忠に対し「自分は必ず戦死するだろうから、自分に従ってはならない。身を全うして殿によく仕えるように」と伝えて家忠を残し、家中の兵の多くを預けたそうです。そして「靱(うつぼ)のしか毛」(背中に背負って矢を納める道具が靱で、湿気を防ぐためにそこに鹿の毛を被せていた)を肴にして家人と最期の酒を酌み交わしたとのことです。松平伊忠の次男・忠勝の著した「権現様御一代記」にも似たような記載があります。松平伊忠の討死の様子については「四戦紀聞」に詳しい記載があります。松平伊忠は味方を離れて乗本村から岩代の渡しを越えて、落ちてゆく武田軍兵士を多数討ち取りますが、武田軍の小山田昌成の兵300が途中から大海という地まで引き返し、松平伊忠の背後をふさいだとのことです。「伊忠享年三十九歳。勇を奮ひ散々に戦ひ、従兵と共に命を損す」とあります。しかし長篠城に籠城していた奥平氏周辺で成立した史料「譜牒余録」では様子が異なります。鳶ケ巣山砦の搦手から攻める松平伊忠らの軍勢に対し武田軍が出撃。1町(およそ100m)ほど押し返した後で武田軍は砦に戻る。それを追って酒井忠次が木戸まで迫り、松平伊忠もこれに続きますが、またしても武田軍が出撃して1町ほど押し返す。この時に松平伊忠は討死したとのことです。「四戦紀聞」に記載のある「乗本」「岩代」「大海」の地名は現在も残っており、こちらのスポットの位置的には「四戦紀聞」の記載と整合性があるように思えます。