武田の重臣たち、別れの水盃の地。
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| 名前 |
大通禅寺杯井 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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この場所に武田の重臣たちが集まり、別れの水盃を交わしたと言われています。天正3年(1575年)5月、武田軍は長篠城を落城寸前まで追い込みますが、織田・徳川連合軍が5月18日に設楽原に着陣。それを受けて武田軍は軍議を開きます。「甲陽軍鑑」によると馬場信春、山県昌景、内藤昌秀、原昌胤、小山田信茂らの重臣たちは決戦無用として撤退を主張。それに対し、武田勝頼公、長坂釣閑斎、跡部勝資は決戦を主張したとのことです。馬場信春は「長篠城を落として本陣とし、そこを拠点に長期戦に持ち込むべし」などの複数の代案を出しますが全て却下され、最終的に勝頼公が決戦を選択したそうです。この軍議の後に重臣たちが集まり、討死を覚悟して別れの水盃を酌み交わしたとのことですが、同じような逸話が残る場所が複数あります。また、合戦から100年以上後に成立した「三州長篠戦記」などの史料にしか記載がないため、個人的には逸話の信憑性には疑問符がつきます。ちなみに勝頼公は合戦前日の5月20日に家臣に手紙を送っており、そこには「戦況はほぼ思った通り」「敵は打つ手が無く困っている」「一気に打ち破って信長・家康を討ち取るつもりだ」と自信にあふれた内容が書かれています。勝頼公の自信の根拠がどこにあるのか不明ですが、索敵が甘く連合軍の数を見誤った、連合軍が着陣してから動きが無いため臆していると考えた、などが考えられるようです。結果、武田軍は翌日の決戦で大敗しますが、「信長公記」によると、織田信長公は武田軍が長篠城近辺から動かず待ち構えられると決戦は不利になると考えていたとのことです。