高さ109mの歴史的塔、覗いてみませんか。
相国寺七重塔跡の特徴
応永6年に建立された歴史深い七重塔跡です。
足利義満公が関与した由緒ある史跡です。
高さ約109メートルの壮大な塔の跡を見学できます。
室町時代の足利義満が平和を求めて建立した相国寺七重塔跡全長109m。
テレビでこのような史跡が存在することを知り訪問。かつては有名な東寺の五重の塔以上の高さをほこっていたようだ。もし現存していれば、このあたりのランドマークとなって、観光スポットとして多数の観光客が訪れていたのは間違いないだろう。因みにマンホールの写真は、この史跡あとのすぐそばにあり、京都で最古のマンホールだ。もしこの史跡あとを見に行かれた際には、ついでにご覧になるのもよいだろう。
歴史的なポイントです。
室町時代の京都には高さ109mの巨大な塔が存在していました。この塔は「相国寺七重塔」と呼ばれ、当時の日本で最も高い建築物でした。現在、日本一高い木造建築とされる東寺の五重塔(高さ56m)の約2倍の高さを誇っていたことになります。この相国寺七重塔を建てたのは、室町幕府の3代将軍・足利義満でした。義満は11歳という若さで将軍に就任し、激動の時代を生き抜いた人物です。当時、日本は南北朝時代の最中であり、義満はその南北朝の争乱を収め、統一を成し遂げたことで知られています。しかし、南北朝の統一を果たしても、国内の情勢は決して安定したものではありませんでした。義満は戦乱によって荒廃した寺社の再建を進めると同時に、強大な寺社勢力との関係改善にも力を注ぎました。当時の日本では、寺社勢力が政治にも大きな影響を持っていたため、彼らとの関係を築くことは幕府の安定に欠かせませんでした。義満は比叡山延暦寺や南都の寺院など、重要な寺社とのつながりを深めることで、幕府の権威を強めようとしました。その一環として、相国寺七重塔の建設を命じたのです。七重塔の完成を記念し、義満は塔の頂上から「散華(さんげ)」を行ったとされています。散華とは、仏の供養のために花びらをまく儀式のことです。これは、七重塔が「戦乱の時代の終わり」と「新たな平和の時代」の到来を告げる象徴として建てられたことを示しています。国宝である「洛中洛外図屏風」と相国寺七重塔との関係についても詳しく紹介されました。「洛中洛外図屏風」は、京都の町並みを俯瞰的に描いたもので、京都の景観を知るうえで非常に貴重な資料です。この屏風に描かれた構図が、相国寺七重塔の頂上から見た景色と類似していることが明らかになっています。アクセスは、鞍馬口駅1出口から徒歩約8分今出川駅1出口から徒歩約11分北大路駅5出口から徒歩約17同志社女子大学と同幼稚園の東側の通りが南北の塔ノ段通りが桜木町から、今出川通までの600メートルにあり、その北側は上塔ノ段町、南側が下塔ノ段町といわれています。七重の塔は、住所にその名前が残されるのみです。同志社女子大学、同志社同窓会館辺りだと思います。
応永6年(1399年)に、三代将軍の足利義満公が高さ36丈(約109メートル)と伝えられる七重の塔を相国寺東南のこの辺り地建立しました。この年は義満公の42歳の重厄の年であり、また父の二代将軍の義詮公の33回忌にあたる年でした。関白一条経嗣公が記した「相国寺塔供養記」によると、応永六年(1399年)9月15日に行われた相国寺御塔供養は、千僧供養で供養会が行われました。これは東大寺再建時の落慶供養にならってのことであり、当時の相国寺一門の隆盛を現しています。しかし、この塔も応永十年に落雷によって炎上し、その後北山に移して再建するが応永二十三年の正月九日から十日にかけて炎上しました。その後、七重塔は相国寺東南の旧地にもどされて再建され、文明二年に三度目の火災で灰燼に帰しました。塔からの眺めはすばらしく、当時の都を鳥瞰した「洛中洛外図屏風」町田本は、この七重塔からの眺望をもとにして描かれたという説もあるそうです。 現在七重の塔の跡は残っていないが、相国寺の近くに、「塔之段」という地名が残っており、その場所辺りに七重の塔があったといわれています。
| 名前 |
相国寺七重塔跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
〒602-0837 京都府京都市上京区今出川通寺町西入三筋目上る下塔之段町513 |
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どんな感じだったんだろ…その時を出来れば覗きたいの〜