東海道五十三次 17番宿の歴史。
興津宿の碑の特徴
江戸日本橋から17番目の宿場町として歴史を感じられる場所です。
約1300年前の白鳳年間からの歴史的背景が魅力的な史跡です。
清見関が設けられ、坂東への備えの役割を果たした重要な地点です。
旧東海道 興津宿東海道五十三次 17番目の宿場です。身延道との分岐点でした。19番目の宿場が幕府直轄の府中宿で、府中宿に普代•親藩大名が泊まるので、外様大名は遠慮して(煩わしい付き合いを避けて) ここ興津宿に泊まる事が多かったらしいです。歴史的には、当地は「奥津」「息津」「沖津」と呼ばれた。鎌倉時代、保元物語に源頼朝の従者として「息津四郎」の名が出てくる。南北朝時代には「興津美作守」が身延道を押える当地(興津)に山城を構えた(横山城)。今川が守護として駿河に入部してくると 興津氏は被官になった。その後 武田 → 徳川 に使え、江戸時代も幕臣(旗本) として生き残った。興津は 明治以降、元勲達の別荘地として賑わいました。西園寺公望、伊藤博文、井上馨、松方正義の別荘が 海岸地域(清見潟) に立ち並び、「興津は政治の裏舞台」と言われた時期もあったらしいです。後藤象二郎は興津の海の眺めをこよなく愛し、興津の水口屋に 度々投宿しました。旧東海道を由比方向から歩いて来て、立派な「興津宿の碑(案内板)」がありました。この「碑」の辺りは、興津宿の伝馬所があった場所のようです。伝馬所とは 問屋場とも言い、人•馬の管理をする 役所のような機能を持った場所のようです。
| 名前 |
興津宿の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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興津は、江戸日本橋から数えて17番目の東海道五十三次の宿場町で、約1300年前の白鳳年間(7世紀後半)に清見関が設けられ、坂東への備えの役割を果たしました。江戸時代には東海道五十三次の宿場町となり、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒が置かれました。