尻八館城趾の冒険、山道を進もう!
尻八館跡の特徴
尻八館城趾は日本の山城100名城に掲載されています。
駐車場から東曲輪までの道のりは40分と体力勝負です。
未舗装のガタガタ道を進むと調整池にたどり着きます。
2022年4月30日に探索しました。青森県内全域に平安時代のものと思われる高地性環壕集落跡が、分布しています。後三年の役後、高星丸が藤崎城を築いた後から、環壕集落跡地の城塞化が進行したように思えます。西曲輪が本丸のように表示されていましたが、遺構の状況や機能からすると東曲輪が、本来の本丸だと感じました。東曲輪の竪穴建物跡周辺からは、海外から輸入された磁器類が多数出土しました。中でも青磁浮牡丹文香炉は、有名です。南北朝時代から室町時代初期に喫茶をたしなむほど、中央の文化に精通した人物が、この城に居たことになります。明徳3年1393年尻八館城主は、潮潟四郎道貞です。彼は、応永19年1412年に亡くなっています。その後を継いだ息子の重季は、応永32年1425年に尻八館の城主になりました。永享7年1435年に南部義政に尻八館を攻められ敗れます。その際に重季の跡取り息子の政季(師季)は、南部氏の捕虜となり、八戸で育てられました。この敗戦が契機になったのか、潮潟安藤氏は、南部氏側に取り込まれた形になったようです。十三湊の安藤氏惣領家が南部義政の攻撃に屈して蝦夷地に追いやられる嘉吉3年1443年までの間、尻八館は、南部氏によって改修された形跡が明らかに残っています。南部氏は、捕虜にした師季(政季)を安藤氏本家の当主にすえて、津軽と蝦夷地の傀儡支配を敷きました。この状況は、1454年に田名部から蝦夷地に師季が脱出するまで続いたと思われます。以上のことから推察すると、尻八館は、15世紀後半に機能していた城館だと考えられます。
史跡を訪ねようと思ったわけではなく、山道をドライブしていたら突然、調整池が現れました。ここから徒歩で城跡に行けるようですが、行きませんでした。特にここまでの案内看板もなく、知る人ぞ知るスポットなのでしょう。新緑の季節に再び出向いてみようと思います。
未舗装のガタガタ道を突き進んだ場所に調整池があり車を止められます。序盤は単調な道ですが、斜度が強くなるあたりから横堀(濠道)が出てきて興奮。それを横目に登っていくと二ノ丸で、ここに説明板などありなんとなく終点の雰囲気。でも見所はその先にあり、二ノ丸の切岸、堀切、抜群の眺望、そして本丸周辺の切岸など。山深く、熊さんの気配もありますので十分な注意を。
「日本の山城100名城」という本で取り上げられていたところで、ここを登城することで無事コンプすることが出来ました。調整池を目指して行かないと、えらいめにあいます。
尻八館城趾には、東曲輪、西曲輪があり、山城公園駐車場から、東曲輪まで40分、その先西曲輪まで15分みてください。途中の急な斜面にはロープが張ってあります。山頂付近に壕道、東曲輪を下がって堀などの中世の山城の遺構があります。後潟城趾と呼ばれるべきところです。安藤氏の城で15世紀末のものといわれています。
| 名前 |
尻八館跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
案内標識が乏しくたどり着くまで、かなり道に迷います!お城は、堀と曲輪がある。マニアック向けの城跡です!