源頼朝も訪れた美岡の神社。
吉岡神社の特徴
吉岡神社は登山道を歩いた先に位置し、自然に囲まれた場所です。
御祭神には大己貴命や少彦名命など三十二柱が祀られています。
源頼朝がこの地を訪れた逸話が伝わる歴史ある神社です。
山の頂上付近に鎮座しています。門前の大木がすごい。少し下に水神様がいます。
国道沿いの鳥居の横から徒歩で10分ほど歩いて行きました車が1台通れる道があります4駆のような車だと良いかと思いました距離は結構あるのかな?と思いましたが神域に入ると あっという間に疲れ知らずで着くような場所でした穏やかな空気が流れています。
406号線にある鳥居の脇道から境内まで車で行く事ができ、道幅は車1台分です。林に入ると階段で行ける道もありましたので今回はこちらから行ってみました。階段を5分程登ると神門に到着します。神々しい雰囲気の神社でした。
御祭神 大己貴命 少彦名命 伊邪那美命 他三十二柱由緒勧請年月日不詳ナルモ口碑傅説ニ依レバ元明天皇和銅元年三月従五位上田口朝臣益人勧請後孝謙天皇天平勝宝八年一月田口朝臣大戸上野介トナリ再建スト言ウ後冷泉帝永承七年源賴義陸奥征討ノ途参拝アリ後鳥羽天皇建久四年源賴朝浅間狩猟ノ際参拝シ美クシキ岡ナリト言ヘリソレヨリ此所ヲ吉岡山ト呼ブ元弘建武ノ乱ニ当リ頽廃ヲ極ム遂ニ野火ノ為メニ社殿神宝灰燼ニ帰シ修理旧ニ復セズト雖ドモ崇敬他ニ異ナルガ故ニ天正七年加部半左衛門ナル者一族黄人ヲシテ社殿ヲ再建セシム永禄六年武田家ヨリ本宿ノ村田地ヲ寄附シアリ明治九年地上トナル明治四十一年六月八日許可境内末社神明宮外五十八ヲ合併ス大正二年九月神饌幣帛料供進ノ神社ニ指定セラル附記 当社ヲ住吉薬師ト称セシハ源右府ガ守本尊タル薬師ノ像ヲ奉納アル併社セルニ起因ス(境内案内板より)吉岡神社の創建は不詳ですが、口碑伝説では和銅元年(708)に田口朝臣益人が勧請したと伝わっています。田口益人は武内宿禰の末裔とされる貴族・歌人で、上野国守に任じられ赴任してきたといわれています。永承七年(1052)源頼義が陸奥征討の途上に参拝しています。建久四年(1193)には源頼朝一行が浅間狩猟の際に参拝し、頼朝が「美しき岡なり」と言ったので、吉岡山と呼ぶようになりました。元弘建武の乱の戦火で社殿は荒れ、野火で全焼しましたが、天正七年(1579)に加辺半左衛門が再建しています。附記として、当社を「住吉薬師」と呼んでいたのは、源頼朝の守り本尊である薬師如来像が納められていることに起因しています。吾妻町指定重要文化財「吉岡神社の薬師像・句額・石灯籠と太鼓橋」国道406号線に面して鳥居があり、鳥居の手前に「太鼓橋」があります。太鼓橋の手前、左右に虎と龍の石の彫刻。太鼓橋と鳥居の間の「石灯籠」は天保四年(1833)のものです。国道沿いの鳥居から神社までは凡そ450m位の距離があります。特に、左右に農地がある部分の先、森林に入ってからは登りになります。境内地に至り、最初にあるのが神門です。左右の随神の像は無いですが、天井に龍や弁天様のような天井画が描いてありました。神門を通って境内左手に、大正十二年(1923)建立の神楽殿があります。正面が社殿で、社殿右側に弘法大師が杖を刺したのが育ったといわれる大きな指定名木「ホオノキ」があります。
その昔、源頼朝が浅間へ狩りに訪れた折り、この辺りを通りかかって「美岡である」と言ったのが地名となり、のち吉岡に改めたのだといいます。また頼朝が当社に立ち寄り、自分の守り本尊である薬師像を奉納したところから「 吉岡薬師」とも呼ばれるようになったそうです(^_^ゞ
名前 |
吉岡神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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須加尾諏訪神社の兼務社鳥居脇の道路からかなり登ったところに神社あります。駐車スペースも割とあります。御朱印はメールなインスタなどのDMで振込郵送依頼とのこと須加尾諏訪神社に御朱印のパンフレット置いてあります。