国定忠治の足跡、静寂の地で。
忠治地蔵(国定忠治刑死場跡)の特徴
江戸時代の侠客、国定忠治の処刑された歴史的な場所です。
背丈2mの忠治地蔵尊が建てられた神聖な地です。
大運寺から徒歩25分、ひとけのない静かな雰囲気が漂います。
稀代の侠客が刑場の露と消えた場所にふさわしい、立派で、メリハリの利いた字体の石柱が立つているが、肝心のお地蔵様が、ノッペラボーで、手もなければ、足もない。もともとこんなお地蔵様だったはずがないから、度重なるいたずらでこんな姿になったのだろう…。処刑当日の生証人のようなサクラの巨木がそばにあるが、逆算してみると、かなり後年になって植えられたもののようだ。弱きを助け、強きを挫く大親分は上州人にとつては、ヒーロー的存在だったものだが、今時の若者はその名はおろか、国定をコクテイと読むらしい。まさに今昔之感がある…。
2024.05.03江戸時代の侠客で群馬では割と名の知れた歴史上の人物かと思います。
国定忠治が処刑された場所。忠治地蔵と呼ばれるお地蔵様が建立されており、参拝すると脳卒中にかからなくなるとのこと。車が2~3台程停められる位の駐車場有り。
過去に国定忠治の菩提寺には行った事があります。大戸関所で処刑された事を初めて知りました。 桜が気になったので来て見ました。
任侠の大親分、国定忠治が処刑された場所です。伺った時期も相俟って寒々しく感じられました。
江戸時代の侠客国定忠治の処刑された場所です。国定忠治は今の伊勢崎市国定町(長岡村)の名主の次男として生まれ、その後、旧境町百々の親分であった紋次から駒札(賭博で使う札の事で譲り受けるのはシマを譲り受けると同義)を譲り受け親分となります。対立する親分等を闇討ちするなどして勢力拡大を続けますが、常に幕府等から追われ、大戸関所も抜刀した子分とともに正面から関所を抜けて長野に子分の敵討ちに向かったといいます。当時の関所は役人が2、3人で後は近くの村から農民が守っていたので、国定忠治達が近づいてきたという知らせを聞いて逃げてしまったということのようです。やがて中風(脳卒中や脳梗塞)でよいよいになってしまったところを捕縛され江戸に送還後、大戸関所破りの罪でここで処刑されました。処刑前に大戸関所近くの造り酒屋加部安の酒を所望したといいます。多くの侠客から尊敬を集め、地蔵も表面を削りとられお守りに持ち帰ったそうです。
国定忠治処刑場址。忠治地蔵と墓があるだけです。
上州は国定村の長岡忠次郎、後世に語り継がれる江戸時代後期の侠客の親分です。大戸関所破りの罪でこの地で磔にされました。後に処刑場所に地蔵が建てられました。
信州街道にある大戸関所を破り、処刑された國定忠治の処刑場跡。関所を正面突破した訳ではなく、山中を迂回しての関所破りだったらしい。
名前 |
忠治地蔵(国定忠治刑死場跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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江戸後期の博徒国定忠治が大戸関所を破って関所破りの重罰で処刑され、その場所が処刑場跡として残っています。国定忠治の刑の執行は有名なはりつけ刑ですが、現在そこには慰霊碑が建てられています。ちなみに処刑場跡の駐車も見学も無料となっています。「国定忠治処刑場跡」という標柱があり、忠治地蔵が立っていて碑や柵には、関西の親分衆の名前が刻まれています。