長者丸の歴史、ここに宿る。
吉田弥一郎の石碑の特徴
長者丸と呼ばれる所以となった場所に位置している石碑である。
吉田彌一郎が転居した明治二十五年頃から町の開発が始まった地である。
呉服商吉田彌一郎氏の没後5周年忌を記念して設置された石碑である。
近隣が「長者丸」と呼ばれる所以となった、呉服商吉田彌一郎氏(18570113〜19240126)の没後5周年忌にあたり、借地人36人が贈呈したもの。
| 名前 |
吉田弥一郎の石碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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明治二十五年頃、吉田彌一郎がこの地へ転居したことに当地の開発ははじまる。彌一郎は、芝区櫻田本郷町の呉服商彌太郎の長男として安政三年十二月十八日に生まれた。『評伝奥村土牛』という本には横浜の生糸貿易で財を成した「大成金」と評され、おそらく、ここで得た資金を元に土地を買い集めたのだろう。明治三十七年頃には本格的な開発が進展した様である。開発された宅地に居住した人物は、当時の政財界・文化界を代表する人物が含まれている。それは石碑の裏面に刻まれた借地人三十六名の名に現れており、公爵二條基弘の長女・泰子、日本郵船社長の大谷登、資生堂社長福原信三、福澤大四郎、鈴木主計、下岡忠一、湯河元臣などの錚々たる顔ぶれから、当地が早くから上流階層の居住地として形成されていたことがうかがえる。また、碑文に「爾来居住者ハ氏ヲ中心トシテ隣保相親ムコト一族ノ如ク其自治ノ美風ハ人ノ傅稱スル所ト成レリ」と記されていることから、彼が地域のまとめ役として住民の信頼を集めていたことも分かる。こうしたハイソサエティ(今で言うところのセレブリティ)からの求心力が後の文化的活動の基盤となったのだろう。大正三年頃になると、彌一郎は今村紫紅・速水御舟ら若い芸術家を支援し始め、彼らの活動拠点が当地に集まったことで、後に「目黒派」と呼ばれる芸術家グループが形成されるに至った。彌一郎の没後は令嗣幸三郎がその遺業を継ぐが、碑文に「大正十三年一月氏ハ長逝シタレトモ令嗣幸三郎君後ヲ承ケ其遺業永ク渝ハルコトナシ」と記される通りである。パトロン活動は、福原信三らとともに継続されたが、そもそも幸三郎自身も学生時代に舞台監督助手を務めるなど芸術に通じており、父の活動を引き継ぐ素地があった。彼は戦中・戦後を通じて古典芸能の振興に尽力し、文化財保護委員会専門委員や国立劇場建設準備委員を歴任、菊池寛賞や紫綬褒章を受けるなど、芸能界全体の発展に寄与する。むしろ父よりも幸三郎の方が有名と言っても良い。いずれにせよ、田園都市構想に基づいて企業資本が都市計画を行い、高級住宅街等のブランド的価値を持つ町を形成することは歴史上に散見されるが、吉田家という個人資本によってハイソな町が築かれた点は日本史上特異である様に思われる。なお、大正十一年頃に、東京電気鉄道による恵比寿線が延線されている。ここから下目黒池上方面に抜けて、大森駅方面と川崎駅方面に接続させる計画があったらしいが、何らかの理由により実現せず、廃線まで当地にあるゑびす駅(後に「ゑびす長者丸駅」)がターミナルとなっていたことも付言する。現在でも当地長者丸は高級住宅街であり、そのハイソな雰囲気は現代にまで引き継がれている。以下、碑文正面の翻刻。上大崎長者丸ハ白金御料地ノ緑樹ヲ以テ市塵ヲ隔テ地爽ニ氣清ク郭外ノ名區タリ所有者吉田彌一郎氏曩ニ荒ヲ開キ路ヲ通シ住宅地トシテ提供セシヨリ相尋キテ邸第ノ築造アリ林叢一變シテ瀟洒タル邑里ヲ成スニ至ル爾来居住者ハ氏ヲ中心トシテ隣保相親ムコト一族ノ如ク其自治ノ美風ハ人ノ傅稱スル所ト成レリ大正十三年一月氏ハ長逝シタレトモ令嗣幸三郎君後ヲ承ケ其遺業永ク渝ハルコトナシ我等同人ハ間雅ノ境ニ安住ノ地ヲ得氏ノ厚情ト温容トニ對シ追懐ノ念止ムコト能ハス茲ニ五周年ノ忌辰ニ際シ胥謀リテ碑ヲ建テ其恩誼ヲ後世ニ記念スルモノナリ。