高い木に囲まれ神聖な雰囲気。
神明神社の特徴
高い木々に囲まれ、遠くからでも見つけやすい立地です。
神聖な雰囲気が漂い、心が洗われる場所です。
古くから伊勢神宮の神領とされる歴史があります。
高い木で囲まれているので離れた場所からでも見つけやすかった神聖な雰囲気ありました。
| 名前 |
神明神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/1086 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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書により「神明社」をしらべてみます古(いにしえ)は「伊勢神宮(外宮)の神領」であったといいます。そのためか「神逐(かみやらい)」の祭りというのがあったそうです。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天界を追放された物語を模した祭で、近隣の者はこの「すさのお役に抜擢」されることをひどく恐れたとあります。この書が書かれていた時代には既に「神逐(かみやらい)」の行事は簡略化されて、行事そのものはなくなりなりました、とあります。地名である「上阿原」の名前由来は此の祭である「神逐(かみやらい)」からきているとあります。______________❶【参考 甲斐国志 1814年】神明宮 上阿原村〇 [社領についての話し]「神明宮」には、幕府から認められた3石6斗(さんごくろくと)の社領が与えられています。神社の敷地もいくらか所有しているほか、税金が免除された農地として、田んぼ(除地田) 350坪、質の低い畑(下々畑)が 60坪あります〇 [神社の記録の話し]神社の古い記録によれば、延暦3年(784年)9月、国司(地方長官)の奏上によって、伊勢国の山田ヶ原(現在の三重県伊勢市)からこの地に神様をお迎えしたとされています。古くは、数百束もの稲を収穫できる広大な田畑が寄贈され、一年のうちに何度も祭礼が執り行われていました。しかし、その後の戦乱の時代になると、神社の領地はしだいに失われていき、祭りの行事もこれによって衰退してしまいました。〇 【古文書と火災の話し】「武田家」が滅亡した後の天正11年(1583年)、神主の先祖である「品川左太夫盛貞(もりさだ)」が、「徳川家康公」にお目通りして、領地を認める朱印状を授かりました。その後、天正17年(1589年)には「伊奈熊蔵(忠次・ただつぐ)」による年貢の量を記した「黒印状」を、慶長8年(1603年)には「徳川家の四奉行」による「黒印状」などをあわせて所蔵していました。ところが正保3年(1646年)11月29日、神主の「藤馬(とうま)」という者が外出していた際に火災が起き、これらの貴重な朱印状や古文書類はすべて焼き尽くされてしまいました。このことは、慶安2年(1649年)に幕府が朱印状を改めて発行した際、地頭の「仙谷右近(うこん)」から寺社奉行へ提出された添え状に記されています。そのため、現在所蔵しているのは慶安2年(1649年)11月17日の朱印状からその後のものまで、合わせて6通となっています。〇 【建物の話し】神社の建物の造営や修理などは、古くは領主や地頭の手によって行われていました。しかし、後世になると、村の氏子たちが時々屋根を葺き替えるなどの手入れをするだけになりました。[本殿] 間口が約1.8メートル、奥行きが約3.6メートル。屋根は「流破風造(ながれはふづくり)」という形式で、「檜(ひのき)の皮」で葺かれています。[幣殿] 間口が約2.7メートル、奥行きが約3.6メートル。屋根は「茅葺(かやぶき)」です。[拝殿] 間口が約3.6メートル、奥行きが約7.2メートル。屋根は「茅葺(かやぶき)」です。[木の鳥居] 高さが約3.9メートル、幅が約3.6メートルあります。〇【祭礼と「神逐(かみやらい)」の伝承の話し】祭礼は一年のうちに何度も行われていましたが、当時は1月17日の「神事始め」に弓を射る儀式を行う「浜弓祭(はまゆみまつり)」があり、これに3月14日、9月16日、12月15日の「大杉祭」を加えた4回を「大神事(だいしんじ)」として重んじていました。古い時代には、12月1日から15日にかけて神社の境内に集まり、祈祷を行ったり演舞を披露したりして、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が岩戸に隠れた場面を再現しました。そして15日になると、一人の人を捕まえて裸にし、神官たちがそれぞれ手に「アザミ(または柴)」を持って、声を張り上げながらその人を追い立てました。これは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天界を追放された「神逐(かみやらい)」の物語を模したものです。この祭りは特に大規模な神事であったため、近隣の人々は自分がその「追い立てられる役」にされることをひどく恐れました。やがて他所の人々から、この地は「神逐(かみやらい)の里」と呼ばれるようになりました。これがのちに「神新居(かみあらい)」や「上新居(かみあらい)」という字で書かれるようになり、現在は「上阿原」と書きますが、呼び方は今も昔のまま “かみあらい“ なのです。この祭りは中世以降、次第に簡略化されていきました。今(江戸時代後期)では、1日から15日まで境内の杉の木の下でお供え物や神酒を捧げて儀式を行うだけで、人を追い立てる「神逐(かみやらい)」の行事そのものはなくなりました。しかし、祭りの期間中は村中で家を建てることや楽器を鳴らすことを禁じ、髪を結うことさえせず、大きな声を出さないようにしています。これこそが、古くからの厳格な風習の名残であると言われています。〇【隠居の神の話し】また、本殿の後ろには「隠居(いんきょ)の神」と呼ばれる社があり、「陰神(めのかみ)」と「陽神(おのかみ)」、つまり「男女の神様」を祀っているといわれています。そのそばにある「石造りの獅子(狛犬)」は、半分ほど土に埋まってしまっていますが、とりわけ古風で貴重な様式を留めています。〇【「伊勢神宮(外宮)の神領」であった話し】ある人が言うには、「向村(むかいむら)」の八幡宮の項目でも述べるように、かつて笛吹川の流れが変わる以前、この地は「石和郷(いさわのごう)」の中にありました。そして「伊勢神宮(外宮)の神領」であった「石禾御厨(いさわのみくりや)250町」の範囲内に含まれていたとのことです。ただし、「大和筋(やまとすじ)」の「窪中島村(現在の笛吹市)」にある「神明宮」と、こちらの「神明宮」のどちらがその本家にあたるのかは、はっきりとは分かっていません。〇 【神主の家の話し】現在の神主である「品川大炊( おおい)」は、先祖の「左太夫盛貞(もりさだ)」から数えて10代目の継承者だといいます。この「品川家」には深い事情があって、「奥州白河(現在の福島県)の結城家」に伝わる古文書や、「野州(現在の栃木県)の那須家」にまつわる古文書など、数十通におよぶ貴重な文書が大切に蔵められています。これらは甲斐国の歴史に直接関係するものではないため、ここではその内容については詳しく記しません。人数は6人、男性が4人、女性が2人。