武田信玄と北条氏の激闘跡。
深沢城跡の特徴
深沢城跡は戦国時代の武田と北条の激闘の舞台で歴史を感じられます。
三日月堀や郭の様子が良く残っており、戦の痕跡が見られます。
夜景が素晴らしく、見晴らしの良い本丸跡までの散策が楽しめます。
歴史的にも有名で土塁や堀などよく残っているが、半分くらいは民間地の田んぼなどになっていて、稲を刈り取った後に訪問したほうがうまく見学できると思う。その影響か駐車場はなく、せっかくよく残っている縄張り遺構を長く見学し難い。非常に勿体ない城趾。
城跡用の駐車場は無いので案内板の向かいの川の柵沿いに停めてまだ暑さの残る9月初めに日の出とともに訪城しました。
北条綱成の生涯の最後を飾る深沢城の戦いの舞台となった場所。駐車場はないが交通量の少ない道であり道が広めなので短時間なら路肩に停車しても大丈夫だと思われる。石碑と説明板あり。城遺構が残されているが草が生い茂っているので中には入らなかった。
二つの川に挟まれた高台に築かれた城跡で、期待してなかっただけ良くて裏切られました。本丸や二の丸は現在は田んぼになっています。土塁などの遺構は残っており、入口の看板を頼りに散策できました。見学者は少ないようで、道を歩いていると何度か蜘蛛の巣に顔がかかったので、団扇を前に振りながら進みました。本丸などの標識があったおかげで迷わず回れましたが、案内がなければ分かりにくかったと思います。駐車場は特になく車で待っていた家族によると、何人もの通行人に覗き込まれたり、近所の方が家から出てきてまで見ていったそうです。見学者が物珍しいのか、不審者と思われたのか。城の周りは住んでいる方もいる場所、田んぼになっているということは誰かの私有地だったのかもで見学には配慮が必要かもしれません。
えー永禄11年(1568年)、今川氏との同盟を破棄して西駿河に侵攻し駿府(静岡市)を我が物とした武田信玄は、後背に悩ましい強力な敵を抱える事になってしまいました。今川氏当主の氏真に正室を出していた関東の覇者「後北条氏」です。この深沢城は、東駿河における後北条氏最前線基地で、武田氏本拠の甲府と後北条氏本拠の小田原を最短距離で結ぶ御殿場ルート上にありました。信玄にとっては駿府に滞在していて甲府にいないスキを狙って押しかけられたら、たまったものじゃありません。また甲府から新領土の駿河湾方面への安全な通信や補給を保つうえでも目の上のタンコブであり、どうしても排除したい城でした。また後北条氏もこの城の重要性は分かっていたので、家中一の武闘派で扇谷山内氏を滅ぼした「河越夜戦」勝利の立役者、北条綱成を配置し有事に備えます。綱成麾下の部隊は黄色く染めた絹に「八幡」の字を大書きした軍旗を翻し、戦場では常に先頭を突進したため、敵はこの旗を見ただけで震えあがったと言われています。ここに激闘の舞台は整いました(笑)。元亀2年(1571)1月、駿河全土の制圧を目論む信玄は大軍で深沢城を包囲します。軍勢の数はよく分かりませんが、後北条側に「援軍を呼んでいいので主力決戦をして雌雄を決しよう」と呼びかけているところを見ると2万以上は居たのかも・・。後北条側の最大動員人数は4万にも達しますから。一方、深沢城は規模から考えて、多くても守備兵は2000〜3000人でしょう。言うまでもなく武田側が数で圧倒しています。しかし、先ほどの「呼びかけ」は信玄得意のハッタリだった可能性もあります(笑)。数万の主力軍が長時間対峙するとなると、局地戦と異なり、食糧・武器弾薬の現地調達など不可能です。十分な準備をしてから行かないと、戦場で自滅してしまいます。それには時間がかかるので、その間に短兵急に攻め立てて城を陥落させてしまうつもりだったのかもしれません。実際に援軍は遅れに遅れました。信玄は兵力差もあり、援軍が来る前に一週間程度で片付ける心づもりだったのかもしれませんが、そうは問屋がおろさない(笑)。さすがは「地黄八幡」(北条綱成のニックネーム)、がっちり城を守ってびくともしません。攻撃から1週間が経ち、次第に信玄は焦り始めます。このままでは数に勝る北条援軍が到着してしまいます。綱成は北条氏3代目の氏康と同年齢で仲が良く、配下というより盟友に近い関係で見捨てる事など絶対あり得ません。信玄も本音では、駿河経営でいくら人手があっても足りない状態なのに、こんな所で人員を損耗させたくはありません。それで「物理攻撃でダメなら精神攻撃!」とばかりに城兵の動揺を誘う目的で、有名な「深澤城矢文」を打ち込みます。原文は無駄に長いのですが(笑)ざっくり要約すると「正義は我にあり、北条は義の無い戦いを止めて城を明け渡せ」という事です。士卒の支持のない城主の場合、これで城兵が逃亡し、夜が明けたら兵が半分になっていた(笑)ということもあるのですが、当然「地黄八幡」にそんな事態は発生せず一蹴します。たださすがは信玄、プランBも用意していました。金山開発業者を戦場に連れてきていて、今度はトンネル作戦発動です。土塁や門を掘り崩され城は無力化していき、綱成は、とうとう最後の一曲輪まで押し込まれてしまいます。地上の勇者も地中から来る敵には、どうしようもありません。これ以上抵抗する術を無くした綱成は、攻撃より約1ヶ月後の1月16日に城を開いて武田側に引き渡し、小田原へと退去していきます。援軍はあと20kmの位置まで近づいていたのですが・・・。綱成は先述の「河越夜戦」の際に、10倍の敵を相手に7ヶ月以上も河越城で持ちこたえた実績があり、北条側は地黄八幡なら1〜2ヶ月は大丈夫と考えて、十分な対武田戦の準備をしてから来たのでしょう。それが仇となりました。ちなみに綱成の「八幡」の旗指物は長野市松代の真田宝物館に現存しています。これは信玄が明け渡された城内に放置されていたものを真田昌幸の実弟の信尹に「綱成の武勇にあやかるように」と与えたのだとか。どれほど綱成が深沢城で奮戦したかが分かるでしょう。現地には武田支配時代に追加された丸馬出しも含め、良好な状態で堀や土塁が残り、見応えがあります。例によって長くなりすぎましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございます(笑)。
近くに寄ったついでと言っては失礼ですが、台風の雨のなか、登城させていただきました。結論から言うと想定以上のよく整備された城跡でした。石碑と案内板を左手に見て大手道と思われる道を本丸に向けて歩いていきます。三日月堀、馬出や廓(現状では耕作地)がとても良い状態で保存されてます。大手道を歩いていると天然の要害の馬伏川のせせらぎの音が聞こえます。大手道は耕作地への通路にもなっているので大変よく整備されて歩きやすかったです。昨年来、熊のビビリになっているので、往復30分ほどで登城は終わりました。石碑の前に車1台分のスペースはありますが生活道路なので素早く登城しましょう。
武田と北条の間で争われた記憶にも残っている。二つの川に挟まれた台地上にある城で曲輪はほぼ水田となっており旧状は留めていないが曲輪間の堀や馬出がよく残されていた。三日月堀も薮に覆われているが確認できた。
2018/8/9超有名な城でも、今は意識して見ないとただの田畑山林である。この深沢城をめぐって、北条と武田が戦いを繰り返していたことは、今となっては全く想像もできない。城跡西側には結構大きな堀跡が遺っており、ここは是非とも見てほしい。
現在は水田となっており案内が無いと分からない、入り口の案内板を写メして案内の杭を頼りに散策して下さい、歩き易い装備で行って下さい木々に覆われていますが良く見ると堀の跡等が分かります本丸跡迄行かれると見晴らしが良くなっています、絵葉書で見た事があるような感じです駐車場はありませんので考慮願います。
| 名前 |
深沢城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0550-83-4770 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP |
https://artscouncil-shizuoka.jp/culture-resource-db/detail.php?id=1021 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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武田氏と北条氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられた城郭。後に徳川氏が所有した。天然の川を利用した堀や各曲輪虎口ごとに馬出を巧妙な縄張が見所。広大な城郭で、今川、武田、北条や徳川など東国の有力大名が拠点とした歴史の舞台。遺構もしっかり残っています。