京成検見川駅近く、天随寺で心癒やす。
| 名前 |
遠近庵三市の追悼碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
〒262-0023 千葉県千葉市花見川区検見川町1丁目10−7 |
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この追悼碑は京成検見川駅徒歩2分の天随寺境内にあります。1.5mくらいの石板に漢文で書かれたもので「遠近庵三市」への追悼文が刻まれています。建立は明治28年5月。で、遠近庵三市です。本名は藤代三市で俳号が遠近庵、弘化3年(1846年)11月5日に船橋市飯山満(はさま)【旧上飯山満村】に生まれました。後、検見川村の藤代家に養子に入り、この地区で俳諧の師匠として多くの弟子を育てました。その辺の細かいことは石板に書かれていますが、返り点のない漢文なのでほぼお手上げです。没年が明治27年(1894年)5月21日であることのみ付記させて頂きます。俳諧とは中世の貴族社会に流行した連歌の流れをくむ「言葉遊び」です。5-7-5の発句に対し7-7の脇句を答え、それを複数の人間でつなげてゆくというモノでした。連歌は「上品」なものでしたが、「俳諧」は滑稽味を重視するなど「下世話」になってゆきました。例えば…………さよなら参画、またきて四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いは幽霊、幽霊は消える、消えるは電球、電球は光る、光るはOYGのハゲ頭……まあ、初期の俳諧はこんなノリの言葉遊びだったと「筆者は」考えます。江戸中期以降、芭蕉や蕪村により俳諧の芸術性は高められましたが、月並俳諧などと揶揄されるレベルの集団も少なからずあったようです。ちなみにこの追悼文の篆額は大隈重信(第8・17代の内閣総理大臣)!遠近庵三市の当時の評価が伺われます。2025.10.29