倉賀野城跡で雄大な烏川を満喫!
倉賀野城跡の特徴
倉賀野城跡は住宅地の中に埋もれた歴史的な城跡です。
烏川の岸壁から見える雄大な景色が魅力的です。
公園として整備されているため、散歩に最適なスポットです。
2019/2/22今は公園となっているが、案内板もあり確かにこのあたりが倉賀野城であったのだろう。周辺を探索するとなんとなく堀跡のような地形があったがどうなんだろうか。
駐車場なし。周囲は住宅街で停めると迷惑かけそうなので少し離れているが駅から歩いて行くことにする。城趾は現在ただの公園となっていて説明板がある以外遺構などない。眺めは良い。倉賀野城は児玉党倉賀野氏の居城。山内上杉氏の配下であったが武田信玄の上野侵攻を期に武田方に付く。以後倉賀野氏から金井氏へと城主が変わる。当時の城主は金井淡路守秀景。武田家滅亡の後は滝川一益・北条氏政と主家を変えるが小田原北条氏の滅亡と共に廃城となる。
鎌倉時代初期、武州児玉党の支流である秩父平四郎行高の子孫、三郎高俊がこの地に館を建立し倉賀野の地名を氏としました。南北朝時代なって倉賀野光行が倉賀野館を改修したことから倉賀野城と呼ばれる事になったようです。公園内の家の前に大きな石碑があるのみで城の遺構は殆ど残っていません。公園から眺める利根川の景色はいいですが、城跡としては弱いか。
群馬県高崎市倉賀野町、JR高崎線/倉賀野駅南口から徒歩14分位にある「倉賀野城跡」を訪れました。13時40分過ぎに訪れて他の観光客はいませんでしたのでゆっくり観光する事ができました。「倉賀野城」鎌倉時代初期、武州児玉党の支流である秩父平四郎行高の子孫、三郎高俊がこの地に館を建立し倉賀野の地名を氏としました。南北朝時代なって倉賀野光行が倉賀野館を改修したことから倉賀野城と呼ばれる事になった。戦国時代になると城主の倉賀野三河守行政が南関東勝領上杉憲政に仕えましたが河越夜戦で討死、倉賀野尚行が行政の嫡男為広を助け倉賀野十六騎と共に城を守りました。その後上杉謙信が上州に進出すると為広を継いだ尚行は箕輪城主、長野氏と上杉方になり箕輪城支城の役割を果たしていたため武田信玄が侵攻してくると内部不和もあり落城し尚行は越後へ逃れました。武田氏へ従った金井秀景が城主となり倉賀野氏を名乗りましたが武田氏が滅亡すると織田方の滝川一益にて従い、本能寺の変後は北条氏に仕えました。天正18年(1590)北条氏が小田原で豊臣秀吉に下ると当城も降伏し廃城となりました。※公園内案内板「感想」倉賀野城は倉賀野市を流れる鳥川の崖に築かれた平城です。現在では住宅街となっているので遺構はほとんど残っていません。鳥川沿いの雁児童公園に城址碑が建てられています。上杉謙信、武田信玄、織田信長、北条氏など戦国時代のそうそうたる武将が絡み合った戦国時代を代表とする城となっています。敵方の武将に鞍替えしながらでも生き残るには大変な時代だったのかと感じさせられます。ありがとうございました。
高崎に行った時友人に連れていって貰いました。高台の下には悠々と烏川が流れウグイスが春を喜んで囁き桜が咲き春を満喫してきました。
まったくの烏川の岸壁近くにあり、城址の石碑が建っています。岸壁と言うくらいですから、かなり烏川を見下ろす高さがあり、対岸の見晴らしは良いです。
倉賀野城の倉賀野氏は児玉党から秩父氏に入った一族の流れですが越後に行ってしまったので、戦国末期は金井氏が倉賀野氏を名乗り入った城跡ですが烏川沿いの城跡です。遺構はありません。でも城跡の石碑はどこよりも立派です。
この場所は車を駐車して見学する事は難しいと思います。今日は友達に頼み、連れて行ってもらいました。そして近くの倉賀野神社の駐車場で待機してもらっていました。倉賀野城跡の前には烏川が流れています。
烏川を見下ろす景色がなかなか雄大です。山田かまちが座っていたというベンチもありますので、腰掛けて物思いに沈むには便利なところです。
名前 |
倉賀野城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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倉賀野城跡の現在は住宅地の中に埋もれており遺構は全くありません。ひっそりと碑が建つのみですが戦国時代までの城なので土塁中心で一方は烏川側の崖になっていますし一方は中山道倉賀野宿に飲み込まれているんで遺構無いのも納得です。地元名称の土豪である倉賀野氏が一帯を治めていたようで、上州の必然から上杉、武田、織田(滝川)、北条と主君を変えながら行き残ってきましたが豊臣秀吉の小田原征伐で敗北し滅亡したようです。江戸時代に倉賀野宿は中山道と日光例幣使街道の交通要衝として栄えたようなので倉賀野城の立地は良かったようです。