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| 名前 |
武田信守の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
武田信守公は信玄公の4代前の甲斐武田家当主です。生誕年は不明ですが、死没年は享徳4年(1455年)で短命だったと言われています。父・信重公(享年65)の死去が宝徳2年(1450年)のため、父の死の5年後に亡くなったことになりますが、武田家当主としての5年間は守護代の跡部氏に押されて目立った実績を残すことは出来なかったと言われています。信守公の2代前・信満公が戦に敗れ自害したため、甲斐国は守護が不在となり国が乱れたそうです。そこで幕府が新たな守護として派遣したのが信満公の弟・信元公で、それを助けたのが跡部氏です。以後、跡部氏は徐々に力をつけ、信守公の跡を継いだ信昌公の時代に絶頂期を迎えます。武田家では、重代の重宝「御旗」「楯無」を持つ者こそが武田家の惣領であるとされてきましたが、信守公の死後は2つとも跡部上野介景家の手に渡ってしまいました。後に信昌公が跡部景家を撃ち破り「御旗」「楯無」を取り返すことに成功していますが、「甲陽軍鑑」によると、楯無鎧を身に着けて戦場に出てきた跡部景家に信昌公が矢を放ったところ、矢は楯無鎧を突き抜け跡部景家を討ち取ったとのことです。楯無鎧を取り返した信昌公が着用して矢を放たせたところ、矢は跳ね返されたそうで、その資格を持つ者が保持しなければ災いを呼ぶと考えられたそうです。