三木の歴史、 市野瀬城跡の遺構探訪。
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| 名前 |
市野瀬城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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市野瀬城跡は、三木市立東吉川小学校跡地の北側に位置し、遺構として、主郭、堀切、空堀跡が確認出来ます。この市野瀬城は、同市吉川町毘沙門にある藤田河内守広興の居城である毘沙門城の支城として、一族である藤田玄門が守護していました。三木合戦では、藤田氏は三木城主 別所長治を支援し、藤田玄門は藤田広興、右近親子と共に、三木城に入り、羽柴秀吉軍と敵対し籠城しました。天正7年9月9日、三木城に兵糧等物資を運び込むため、毛利軍と雑賀衆が明石から陸路で三木の大村付近まで兵糧を運んできました。毛利軍は、三木城を取り囲む付城の包囲網を突破するため、羽柴方の豪将 谷大膳亮衛好が守護する平田山砦に夜襲をかけました。これに示しあわせて三木城からも別所吉親を大将とする兵3000が平田山砦を攻撃しました。藤田玄門もこれに参戦したと云われています。不意をつかれた谷大膳を討ち取るも、異変に気付いた秀吉は、平井山の本隊を援軍として平田山砦に送りました。加えて、廻りの各付城からも援軍が参戦し、形勢は逆転し、毛利別所連合軍は敗走しました。三木城の別所軍は、兵糧が無く、体力が弱り、鎧が重くて戦いに成らなかったと云われています。この毛利別所連合軍と羽柴秀吉軍の戦い(大村平田合戦)において、藤田玄門は討ち死にしたとされています。