八丁堀の歴史を感じる。
八丁堀の与力・同心組屋敷跡の特徴
寛永12年に建立された与力・同心の屋敷跡です。
八丁堀の歴史が息づく、静かな場所で時代劇の舞台。
官舎跡としての貴重な歴史を感じられるスポットです。
八丁堀の与力・同心組屋敷跡〒104-0032 東京都中央区八丁堀3丁目18-7 中央区立京橋スクエア時代劇に、よく「八丁堀の旦那」みたいのが出てきますが(個人的には藤田まことさんのイメージ)、ひらたくいうと、このあたりが、昔は、八丁堀の与力・同心組がまとまって住んでいた官舎跡というわけです。ここから、毎日東京駅・有楽町駅まで通っていたというわけです。八丁堀の七不思議の一つ、「女湯の刀掛け」というのがあるそうです。朝湯が好きな与力・同心のために、朝から客のこない女湯も開放し、通勤前にのんびりお風呂に入ってもらおうなんて、風情(実は賄賂の不正もあったらしい)のあった時代なんでしょう。あと、他の七不思議の「寺あって墓なし」とかの由来もこの看板に書かれている内容でわかります。以下に案内板を文字起こししておきます。八丁堀の与力・同心組屋敷跡所在地中央区八丁堀一~二丁目日本橋茅場町一~三丁目の一部江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力一〇人、同心五〇人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力五〇人、同心二八〇人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行二〇〇石、屋敷は三〇〇~五〇〇坪、同心は三〇俵二人扶持(ぶち)で、一〇〇坪ほどの屋敷地でした。これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。平成十三年三月中央区教育委員会。
寛永12年(1635年)に元々あった幾つかのお寺を郊外に移し、ここに与力・同心のお屋敷をいくつも建立したとのことです。江戸時代は小粋なおじさんがいっぱい屯していたのでしょうか♪
| 名前 |
八丁堀の与力・同心組屋敷跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
〒104-0032 東京都中央区八丁堀3丁目18−7 黒江屋八丁堀ビル |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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歴史を感じました。当時の屋敷が見られればもっと良いと感じました。