掛川城大手門の威厳、体感せよ!
掛川城 大手門の特徴
掛川城大手門は油山寺山門として移築された威厳ある門です。
平成7年に復元された二階建ての楼門造りで迫力があります。
掛川駅から徒歩10~15分でアクセスできる便利な位置にあります。
とても立派な門です。ちょうど掛川城の天守閣も見えます。川沿いには掛川桜が咲き、気持ちよく散策出来ます。
オリジナルは油山寺山門として移築現存しています。柱は1尺5寸、鏡柱は2尺6寸もあり、ケヤキの巨木で木造復元されています。2階は非公開。木造で天井はなく四方に格子窓と狭間が配置されており、狭間は防犯のためか透明なガラスがはめられています。アクセスの為の階段は高さがかなり高く傾斜も急なため、一般公開の予定はないようです。
この大手門は山内一豊により設けられたもので、現在の大手門は平成7(1995)年に復元されたものだそうです。但し、当時の位置から50mほど北に建てられたそうです。構造は楼門造り(2階建て)の櫓門で、規模が大きく見応えがある。騎乗して通行できるように造ったとのことであるが、今、騎乗して通る人はいないだろう・・・。さて、この門の裏側に掛川城の「歴代の城主家紋と名前」の木札が並べられている。最初の城主(城代・城番?)は朝比奈氏3代泰煕[やすひろ]・泰能[やすよし]・泰朝である。泰朝の時、今川氏真が家康に攻められ籠城した。家紋は「三つ頭」紋であるが、左巴か右巴かは両方の呼び方があり朝比奈氏がどちらなのか分からない。次の城主(城代・城番?)は家康重臣の石川氏2代家成・康通で、家成は有名な石川数正の伯父である。家紋が注目、「笹竜胆」である。実は石川家は清和源氏の出で、源義家の6男義時が河内国石川荘(大和川の支流、石川が流れている大阪府の東南部の河内源氏発祥地の付近か?)を相続し石川源氏と称したそうである。その次の城主が秀吉配下の山内一豊である。そして一豊が大手門を建てた。家紋は「丸に三葉柏」である。次に木札8枚飛ばして、北条氏重、家紋は「三つ鱗」である。氏重は幕府に願い出て、明暦2(1656)年掛川古城本曲輪跡地に龍華院大猷院霊屋[りゅうげいんたいゆういんおたまや]を建立している。霊屋は氏重が1651年に没した3代将軍家光の霊牌を祀るために建てたもので、その目的は嗣子のない氏重のお家断絶の打開策らしいが、結局は2年後の氏重の死後、お家断絶、領地没収となった。《2023.2.1訪問》
2023/2/25掛川城の大手門は、1993年(平成5年)に行われた発掘調査で礎石根固め石が12か所確認されたこともあり、1995年(平成7年)に復元されたものだそうです。ただし、当時の位置から50mほど北に建てられているそうです。木造で復元されているので趣があります。
掛川城大手門(かけがわじょうおおてもん)所在地 静岡県掛川市城下27掛川城大手門は、天守閣に続いて平成7年に復元されたもので、大きさは間口七間(約12.7m)、奥行(約5.4m)の二階建です。掛川城の表玄関にふさわしい楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりになっています。白壁で板ひさしが配され、棟の上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。平成5年に行われた発掘調査で門の礎石が12ケ所確認されました。大きくて重量のある櫓門を支えるため、直径2m、深さ1.5mの穴に40cm前後の川原石を円形に4〜5段積み重ねて根固め石とし、その上に門柱の礎石が置かれいました。この「礎石根固め石」をそのままの状態で取り上げたものが、大手門内に展示されています。
今日初めて来ました。平日なのか城内には入れませんでした。掛川城は掛川駅前近くにあり寄り道してもよい身近のスポットです。
掛川城天守と同時期に、この大手門も再建されました。大手門前から見る天守とのセットは、良い撮影スポットです。実は、この大手門の当時の物である本物を見ることができます。それは、遠州三山の一寺である名刹「油山寺」の山門がそうで、明治初期に移築されました。車で来た場合、大手門駐車場を利用すれば、すぐ目の前にあり便利です。
本来の位置より50メートル程移転して、再建されています。掛川城の天守も見えます。
立派な門です。いつ頃再建されたのかなぁ。🤔門の下に、歴代城主の札が飾って有りました。山内一豊は分かります😄
名前 |
掛川城 大手門 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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掛川城の威厳ある素晴らしい門。門をくぐると、…特に何もないです。ここは復元された門だけ。