木原の神社で歴史探訪を!
許禰神社(木原権現社)の特徴
訪れると歴史を感じる、鎌倉時代から続く神社です。
家康が腰掛けた石を訪ね、多くの参拝者が集まります。
樹齢400年の楠や弁天池が、魅力を引き立てる境内です。
往時の面影を残す旧東海道に面した古いお社です。元亀3(1572)年の武田信玄の西上作戦の折、袋井の国中方面から西進する武田軍は、この木原の地に陣を敷いたと考えられています。対する徳川方は見附(磐田市)に布陣。内藤信成、次いで本多忠勝が物見(偵察)として進出し、一部が木原畷で武田軍と干戈を交えたと伝わります。この戦いは「木原畷合戦」と称され、当社にその案内板と石碑が建てられています。おそらく、近くを流れる太田川の河川敷で合戦に及んだのでしょう。案内板の傍らには、家康公腰掛石があります。これは会津征討と関ヶ原合戦に向かう折に当社(木原権現社)で戦勝を祈願し、その際に腰を下ろした、とか。社伝によれば、徳川家康は「神徳を賞せらるるよし。台命有て、先規の供領七拾石を以て、社領につけさせ給ひ」と、70石を寄進したといいます。さて、当社は現在、式内許禰神社を称しています。しかし、中世には一貫して「権現社」と称していました。社伝によると、はやくも702年に熊野から熊野権現を勧請し、永保2(1082)年に社殿を造営した記録が残ります。近世まで神職は鈴木氏(のち、木原姓を称す)がつとめていました。創建は近くを流れる河川と深い関係があり、出水に悩まされていた里人の前に熊野権現が出現し、お祀りするように託宣したと伝わります。江戸時代の『掛川誌稿』には木原の熊野権現として記録されています。また、古文書については「火災に罹りて一通を伝わらず。」と。江戸時代後期になって式内許禰神社に比定され、明治になって許禰神社を称するようになりました。しかしその根拠は薄弱であり、『式内社調査報告』(第9巻東海道4)は「資料が少なすぎて判断できない」と論じています。また、『袋井市史』も許禰神社の所在地は不詳としています。なお、式内許禰神社の諭社としては、ほかに周智郡森町三倉の許禰神社があります。境内は豊かに水に恵まれ、このお社が水と深いかかわりがあることがよくわかります。訪問時、書き置きの御朱印をいただくことができました。
正月飾り、片付け前でした。10年以上前に、近くに住んでて懐かしかった。
由緒ある式内社。入り口左に徳川家康公腰掛石があり、そのまた左には古戦場 木原畷の案内板があり、歴史を感じさせます。境内には、八幡宮や須賀神社などが祀られています。
ありがとうございます♪許禰神社(木原権現社)⛩は、鎌倉時代前からある神社だそうです♪徳川家康御座石があり、この地域の大工職🪚人が、腕を見込まれ、江戸城の構築に貢献して、江戸に住むことになり木原町の地名が今も残っているそうです♪大工さんの🪚神社として、建築関係者が古くから参拝されているそうです♪樹齢400年の楠も鎮座しています。御座石に腰掛けると🪨、地中から力のある熱を感じることができるとのことでしょう、時代を感じられる地域です♪天皇陛下も訪れた由緒ある神社⛩です♪若き家康が負け戦をした古戦場がここの北にあります。岡崎城と岡崎城の北の大樹寺に行くとこの古戦場との関係が興味深いです♪2023年の大河ドラマで家康がどのように描かれるか気になります、東海道五拾三次の中間のど真ん中に位置する地域で、火の🔥神様、秋葉神社の参拝もしたいものです♪
家康が腰掛けた石が残っているとは!
毎年8月13日と14日の2日間に木原大念仏が見れるよ‼️🙂⛩️
木原畷の古戦場跡、家康の腰掛け石や、ご神木のクスノキ、弁天池に浮かぶ厳島神社と見所の多い神社です。古くは木原権現社と呼ばれていたものが、明治に入ってから許禰神社に改称されたものです。仏教風のネーミングが、神道的には宜しくないという神仏分離的な流れの中での変更なのでしょうね。
名前 |
許禰神社(木原権現社) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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拝殿の上部にある看板で、古事記に由来する神殿です、縁切りと思われます、境内社は参拝の方法が不明です、予算の都合かな?