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| 名前 |
おやま塚 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
再訪問日 2025/8/3違う案件「三倉防空監視俏」探しで彷徨いた時「戦国夢街道」に設置された説明看板を見掛けたので立ち寄ってみました。以前、見に行った場所は違っていた様で看板が設置された背後の山が「おやま塚」と呼ばれているそうです。山にも登ってみましたが、良く管理されていてシダや下草もありませんでした。「おやま塚」大久保の東から片倉に下りる道から少し上った林の中に小高い山があります。土地の人達は、昔から「おやま塚」と呼んできました。この「おやま塚」という名の由来は遠く戦国の時代に端を発していると言われています。戦国の世も終わりに近い天正2年(1574年)4月、徳川家康は自ら兵二千を率い武田方の天野氏を攻めるべく、その居城•犬居城へと進撃をしました。しかし、折からの大雨で増水、氾濫した気田川に行く手を阻まれ、ついに撤退を余儀なくされたのでした。この撤退の途中、状況をいち速く察知した天野軍は反撃に転じました。地の利を得た山岳戦に、徳川軍は手痛い敗退をしたのです。多能•大久保から、一の瀬へと敗走する徳川の本隊とは別に、ここ大久保から乙丸へと向かう女性の混じる一隊がありました。雨上がりの険しい山の中です。逃げるに逃げられず哀れにも女性達は、ついに戦の犠牲となり討死をしたのです。戦は終わり、これを不憫に思った村人の手で、亡骸は丁重に葬られ、その跡は塚となりました。この塚を人々は「おやま塚」と呼んだのです。従って、この塚の名前には戦国女性の悲劇が秘められているのです。