家康を守った一言坂の英雄。
一言坂古戦場跡の特徴
本多忠勝公が迎え撃った、武田軍との激戦の歴史が感じられます。
古戦場マニアにはたまらない、熱い想いが馳せる場所です。
立て看板のみのシンプルさが、歴史の重みを際立たせています。
この道は現在の県道413号です。昔の東海道はここより少し南側にあります。磐田市ではここ「一言坂」から昔の東海道へとはいり、「藤と香りの道」と交差する森下起点案内板までの約3キロの道を「東海道と歴史の道」と定め、いくつかのサインを設置しました。途中には、江戸時代に東海道を旅する人たちの休憩地となった「ご軍録」もあります。どうか、時間を超えて歴史の空気の中をゆっくり歩いて下さい。なお「一言坂の戦跡」石碑はここにありますが、本来の一言坂はすぐ北側の山沿いにある坂道であり、江戸時代以降「姫街道」と呼ばれた道でもあります。建て看板より。
いわゆる徳川四天王の本多忠勝が武田軍に対し武勇を轟かせた古戦場です┉ですが、観光地でもなければ専用駐車場があるわけでもない、あくまでも 歴史好きが 想いを馳せる場所ですよ🙆
2023/03訪問。交通量が溢れるのをおそれて、早朝5時頃に。路駐せざるを得ません。
☆やっと来れました一言坂古戦場跡元亀3年(1572年)、二俣城攻防戦と三方ヶ原の戦いの前哨戦❗️名文句「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」の本多平八郎忠勝の武功称えし戦場✨☆武田軍先遣隊/馬場信房(信春)・小杉左近vs徳川軍偵察隊/本多忠勝・大久保忠佐、天竜川を渡って東進していた徳川家康本隊兵3000、本隊開戦を回避「徳川家康本隊を天竜川西岸へ渡河させ退避させる」ための迎撃戦⚔️一言坂に殿として陣形展開し武田軍と激突した本多&大久保偵察隊、家康本隊の天竜川西岸渡河を確認し、決死の敵中突破脱出劇🐎☆最強武田騎馬隊を目の前に主君/家康退避するまで一歩も退かなかった本多平八郎忠勝、武田方が称えし「家康に過ぎたるもの 本多平八」の誉高し一言坂古戦場‼️☆案内板と石碑のある県道/磐田袋井線の大通りではなく、北側の小さい案内板がある通りが一言坂だそうです、案内板に記載されてました🤔
本多忠勝公が追ってくる武田軍を迎え撃った場所です!昔学校の劇で取り扱ったので思い入れがあります。坂が非常に急で、止まる場所も限られているため見学するには危ない⚠️です。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八-武田軍・小杉左近」
立て看板と言うか標識だけが立つだけです。歴史上重要な場所だと思うので、立ち入り禁止の部分も整理して入れるようにして、車も2台ほどでも停められるように駐車場も完備して頂けると個人的に嬉しいです。
元亀3年(1572年)、三箇野川の戦いで武田信玄に追われた徳川家康は、磐田市見付宿に火を放ちつつ浜松城に向かって敗走していましたが、ここ一言坂で追いつかれてしまいました。しんがりを守った本多平八郎忠勝(※)の奮闘により家康が逃げ延びたとされていますが、武田軍の小杉左近は忠勝の活躍に敬意を表して見逃したとする説もあります。ちなみに家康は今では近くにある智恩斉に移されている一言観音に助けられたと信じていたそうです。※ 本多平八郎忠勝は徳川四天王のひとりで、天下三名槍「蜻蛉切」の使い手。13歳の初陣から57回の合戦に参加してひとつも傷を負わなかったという戦国武将。一言坂での活躍により信玄から「家康にはもったいない」と評されました。その後の三方ヶ原の戦いでも、浜松城を目前にした犀が崖付近で、しんがりを守って討ち死にした本多肥後守忠真らに助けられ、家康は命からがら帰城しました。2倍以上の兵力で家康を圧倒する信玄は浜松城を攻めず、このときも家康を取り逃すという轍を踏みました。もしこの「二度の取り逃し」がなくて浜松城が落とされていたなら、浜松は武田氏の配下となり、諏訪原城や高天神城の戦いはなくなり、長篠の戦いは趨勢が変わり、関ヶ原の戦いすら起きなかったかも知れません。ひいては徳川幕府の江戸時代も誕生せず、特に秀吉没後から現代に至る四百年以上の日本の歴史は、全く違ったものになっていたはずです。「無数の要因の積み重ねが歴史を作る」という意味では、武田氏の「一言坂での家康取り逃し」は日本の歴史を変える大きな要因となったと私は考えています。
こんな近くに有名な古戦場があったなんて!20~30年前の日本史と比べると、日本人の日本史リテラシーは格段に高くなっている気がします。東海道を西に向かう磐田台地からの降り口での戦いだったとのこと。信憑性がありますね。さらに、天竜川の渡場の位置まで東海道を通ると遠回りになるため、そのショートカット道があったなんて、実におもしろいです。あと、ハンターには注意です⚠️
立て札や石碑が無ければなんてことのない道路ですが、古戦場好きにとってはたまらない場所です。自動車では大した坂ではないですが、当時の敗走する徳川軍には相当苦労したに違いありません。鉄砲を打ちかけられた平八郎を、なぜ武田小杉隊が捕まえなかったのか、よっぽど強かったのか。やっぱりしんがりに情けをかけたんだろうなとか。まだ蜻蛉切は持っていなかったのか。いろいろと想像を掻き立てられます。ちなみに平八郎はゲームではお馴染み無敵の本田忠勝です。
| 名前 |
一言坂古戦場跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」という言葉が生まれたところ。元亀3年(1572年)10月、この付近で武田軍に攻撃され徳川軍が浜松城に敗走する「一言坂の戦い」で殿軍を務めた徳川家の重臣、「本多平八郎忠勝」の獅子奮迅の働きを武田軍が賞して落書を一言坂に立てたという。車は迷惑路駐になるので近くの「なかよしひろば」の駐車場にとめた。