臨済宗妙心寺派の神秘。
護應山清水寺(別名:椿寺)の特徴
臨済宗妙心寺派の末寺として知られる寺院です。
尾張西国三十三観音の第32番札所で格式があります。
歴史ある尾張名所図絵にも記載されています。
【護應山清水寺(別名:椿寺)】「尾張名所図絵」によると、この寺は臨済宗妙心寺派の美濃国上加納瑞龍寺の末寺である。延暦二十四(八〇五)年、坂上田村麻呂(七五八~八一一年)の開基の寺と言われている。又、中興開山は妙心寺派の悟渓宗頓和尚であった。その後、寛永二十(一六四三)年僧空屋によって再建された。本尊は釈迦木像である。観音堂には聖徳太子作の馬頭観音を安置してあり、尾張国三十三観音の一つで、田村麻呂の寄付という。京都の清水寺の本尊と同木で作られたものという。この寺の開基ということで、後年築いた塚・田村麻呂塚が境内にある。また寺宝として田村麻呂の画像があったと記されている。寺伝によれば、延暦十七(七九八)年、坂上田村麻呂が東北の蝦夷討伐に向かう際、濃尾の境に至ったが、三日三晩降雨大雷雨にて軍馬は進むことができなくなった。しかし大徳ある宜空律師が一心に祈念したところ、たちまちにして天は晴れて軍馬は進むことができたという。坂上田村麻呂は蝦夷征伐の東山道の沿道に清水寺を建立したが、宜空律師の徳をたたえられた尾州清水寺は京都の音羽山清水寺の次に建立され、北法相宗として開山された。当時は国家鎮護の古刹として七堂伽藍が並び八坊その他観音堂、釈迦堂があり、熊野、白山、愛宕、山王、八龍の五鎮守を祀る大寺であったが、以後衰退し、文明三(一四七一)年、妙心寺派の清水寺として悟渓宗頓(大興心宗仏徳広通国師)によって再建された。以上のことから、この寺は坂上田村麻呂が東北の蝦夷討伐の戦勝祈願のため、進軍した東山道の沿道に建立した清水寺の一つと思われる。その後永禄・元年間に廃城、再営された伽藍も天正十二(一五八四)年の小牧・長久手の戦いの兵乱にて消失したとされている。この地は清水寺洞といい、観音堂三十二番札所であった。この寺は今日、境内に数十種類の椿が植えられ、椿園として色とりどりの花が咲き、参拝客に安らぎを与えている。
| 名前 |
護應山清水寺(別名:椿寺) |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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