古社比企総社で心静かに。
伊古乃速御玉比売(いこのはやみたまひめ)神社の特徴
伊古乃速御玉比売神社は延喜式神名帳に記載される古社です。
比企総社に位置し、周辺には七社の淡洲神社があります。
参道入口から続く石段を登り社殿へ至る美しい景観があります。
ツアーのコースで訪問しました。茅の輪の製作体験をしました、50cmくらいの茅でしめ縄を作り輪にしました。境内は県指定天然記念物になっていますが、散策は危険だそうで「マムシ注意」の看板が有ります。
比企郡の式内社の一座。現在の比企郡の区分では、郡域でない東松山市を越えて、旧横見郡(吉見町とか)も比企郡ですが、式内社の制定の時代の区分では、横見郡は単独の郡で、式内社が三座になっています。式内社(小)、旧社格は村社。祭神は気長足姫命(神功皇后)、大鞆和気命(応神天皇)、武内宿禰の三神となっていますが、本来の祭神は、社名にあるとおり速御玉比売命((はやみたまひめ)とあります。創建年代は不詳ながら、仁賢天皇年間(449~460年)に、蘇我石川宿禰(武内宿禰の第3子)の子孫が二ノ宮山の頂上に創建したと伝わり、天正4年(1576年)に当地へ遷座し、二ノ宮山の社を奥宮としたとのことです。更に、7世紀初頭前後に、摂津国難波から横渟屯倉(よこぬのみやけ)に入植した壬生吉志(みぶのきし)との関わりが推測されとあり、横渟屯倉は、古墳時代の无邪志国(无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)が支配した国)にあった屯倉。位置はのちの律令制における武蔵国横見郡(現在の埼玉県比企郡吉見町)と推測されるとあり、壬生吉志氏は、壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)の事で、平安時代の武蔵国男衾郡の大領。榎津郷に住む。壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部(みぶべ)の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族とあります。社名と祭神に速御玉比売命(はやみたまひめ)と言う女神があるのは、どんな女神なのかはまだ不詳です。ご参考として、神社覈録に当社の速御玉比売命は、安房国一ノ宮の天太玉命の后・天比理乃咩神の異名である。天比理乃咩は異名の多い方ですが、草部吉見とタクハタチヂ姫の娘・阿蘇津姫です。阿蘇系といえます。以前の調査では阿蘇系は入間の霞川上流・青梅地域に集中していました。そことは離れていますが、近畿奈良政権の支配が完全に確立する前に天比理乃咩(阿蘇津姫)を信奉する阿蘇族がここ伊古の地に入植した、ということを示していると思いました。とあります。
延喜式内社ということジョギングで塩の大榎の帰りに立ち寄ってみた。新しい説明版に勝海舟が書いた幟について解説があった。どのような関係で勝海舟に揮毫を依頼したのかの記述はない。現代人にとっては勝海舟と言えば偉人であり知名度は抜群だが、新聞だって普及していたか分からない明治初期に、この辺りの集落の方は勝海舟の偉大さをどのように知ったのだろうか。しかも、一般人が伝手も無く訪れても会ってくれないだろう。そのあたりが知りたい。
埼玉県比企郡滑川町にある、武蔵国式内社であり比企総社。滑川の里山の風景とともにとても居心地の良い神社です。大祭は毎年10月15日。周りに位置する淡洲神社と併せて参拝したい。
伊古乃速御玉比売神社(いこのはやみたまひめじんじゃ)御祭神 気長足姫命(神功皇后) 大鞆和気命(応神天皇) 武内宿禰※元来の御祭神 速御玉比売命境内社 金刀比羅神社 天満天神宮 八幡神社由緒当地は「和名抄」に載る比企郡渭後郷に比定されています。この名残として、式内社である当神社は、社名に伊古(渭後)を冠しています。渭後郷の地名については、渡来系氏族壬生吉志と関連があったとする仮説があり、七世紀初頭前後に、比企及び男衾方面に横渟屯倉の管掌者として摂津国難波から入植した壬生吉志は、本拠地である難波の地名を比企の渭後、都家、高生、更に男会の榎津にもたらしたとされています。渭後郷を難波にある地名と関連づける理由は、渭後が「いかしり」とも読めるので、摂津国西成郡に鎮座する式内社座摩神社(いかすま)と係わりがあると考えられ、また、座摩の御巫が祀る神は、「延喜式」神名帳の宮中神に見える生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五座を示し、いずれも井水や敷地を守護する神です。現在の鎮座地の西方約700mに、標高1318mの二ノ宮山があります。氏子はこれを、「奥社」あるいは「元院」と呼び、「武蔵志」には、「伊古速御玉姫神社図」として、当神社及び二ノ宮山、別当円光寺が一体となって描かれています。「風土記稿」には、天正四年(1576)に二ノ宮山から現在地に遷座したと載っています。二ノ宮山の社を奥宮とし、五穀豊穣を願い、奥宮に榛名神社を合祀しています。伊古乃速御玉姫神社の創建年代等は不詳ですが、延長五年(927)に作成された延喜式神名帳に「伊古乃速御玉比売神社」と記載されている古社で、武蔵国の四十四座の中の一社で、比企総社となっています。「明細帳」に、「人皇二十四代、仁賢天皇ノ御宇、蘇我石川宿祢ノ末裔、此里ヲ開キ君祖三幹平治ノ広徳ヲ仰キ字二ノ宮ノ山上ニ弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ三柱ノ神霊ヲ祭租シ、延喜式内ニシテ比企郡ノ惣社タルコト皆世人ノ知ル処ナリ」とあります。御祭神は、元来、渭後の地に坐す「速御玉比売神」ですが、速御玉は渭後に坐す姫神の霊威を讃えたものであろうと考えられています。「明細帳」では、大朝和気命、気長足姫命、武内宿彌命の三柱を載せています。また別に、当神社の神を「淡洲明神」といい、これは「風土記稿」にも記録があります。「神社覈録」に当神社の速御玉比売命は、安房国一ノ宮の天太玉命の后神である天比理乃咩神の異名であると記されています。「比企郡神社誌」の一説には、淡洲明神の洲は「しま」と読むことから紀伊国海草郡加太之浦に鎮座する淡島明神、つまり加太神社の神を当神社に分霊したと思われる、としています。縁起によると、淡島明神は住吉明神の妃で、帯下の病により淡島に流され、以来、女人の下の病を守る神として、更に安産の神として信仰されています。なお、当神社近郊には、分社と考えられる淡洲神社が、滑川村水房、山田(二社)、福田、土塩、嵐山町勝田、太郎丸に鎮座しています。石段を登りきったところに聳え立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の御祭神と相まって、近年でも広く信仰がなされています。(「境内案内板」及び「埼玉の神社」参照)
比企郡滑川町にある伊古乃速御玉比賣神社。由緒等は他の方々が書いている通りです。宮司さんからお話を伺ったところ、江戸時代後期に建て替えを行う際に、当時近在の方々が供出した石臼を拝殿と本殿の基礎にしたそうです(写真参照 本殿はさらに建て替えで石臼の基礎ではなくなったが、コンクリートの基礎に埋めこんでいる)。この地で神社を維持していくご苦労も伺いました。また訪ねてお話を伺いたいなと思いました。周辺の淡洲神社(7ヶ所)も後々参拝してみようと思います。
延喜式、式内小社の論社である古社比企総社とされ旧社格は郷社700m程の西の二ノ宮山頂に奥の院がある15世紀にそちらから現地に遷座との事かつて内青鳥(東松山市石橋、森林公園駅の南側)に一の鳥居があったとも伝えられるまた近隣に7社ある淡洲神社の総社とも伝わる滑川の小さな支流が作る開析谷斜面に面して鎮座して参道入口から石段を登り社殿に至る入口にはポール、鳥居、社号標、由緒看板など左手には竿置き場、石段を登りきると二の鳥居境内には右手に社務所、正面に社殿左手に末社の天満宮、金毘羅の祠がある末社の奥は催事の時に駐車場に使われる様な広場になっている。
麓の社務所で御朱印が貰えるようですが、開いていない場合は、伊古の里の事務所(農家レストランと同じ建屋)でも頒布の代行をしているそうです。
この神社は延喜式のなかにある古社で比企総社と云われています。東松山市にある青鳥にこの神社の一の鳥居の大鳥居があったので、青鳥と云われているとか何かの本に書いてあったが、本当かな?字の数が多い神社はなにか古そうですね。また境内にある樹木がアラガシの暖帯常緑樹とアカシデ・ソロの温帯落葉樹が一緒に存在しているのが珍しく、県指定の天然記念物になっています。見ても良くわからないですが、以前と比べると裏側の樹木が少なくなったかな?
| 名前 |
伊古乃速御玉比売(いこのはやみたまひめ)神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
以前、近くに勤務していた事があり、定期的にお詣りしていました。毎年10月15日に例大祭があり、近隣の氏子さん達が勢揃いします。御朱印は日曜日、付近の約16社の宮司を兼ねている方が事務所におりますが、それ以外は近くの伊古の里 農家レストランに行くと300円でいただく事ができます。大変、落ち着いた場所にあり、夏は蝉の鳴き声の大合唱、それ以外の季節もゆったりと時が流れていくことを感じる事ができます。昼〜夕方頃の時の移ろいを感じるのもお勧めです。