弓矢八幡の趣ある静けさ。
八幡神社(須賀広)の特徴
須賀広八幡神社の御祭神は誉田別命で、神鏡が御神体です。
神社裏の集落センターに駐車可能で便利に参拝できます。
木々に囲まれた落ち着いた静かな雰囲気が魅力的です。
道に迷った。そうしたら偶然たどり着いた。
木々に囲まれて静かな感じがいいね。鳥居は、やっぱり木がいいよ。
昔、戦隊もの(ゴーカイジャー)の撮影をしてました。
神社裏にある集落センターに車を停めて参拝しました。
雰囲気はありました。昔は舞台で歌手が歌ったりしていたみたいです。現在は手入れをされていないみたいでした。
趣のある神社。
名前 |
八幡神社(須賀広) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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須賀広八幡神社(すがひろはちまんじんじゃ)御祭神 誉田別命境内社 神明社 合殿(三峯神社・稲荷神社・榛名神社・阿夫利神社・御嶽神社・天満社・厳島神社・白山社) 天満天神宮石塔由緒須賀廣村八幡社 村の鎮守なり、弓矢八幡と號す、本地佛釋迦を安ず、釋迦寺の持神明社 村民持(「新編武蔵風土記稿」参照)八幡神社の御祭神は誉田別命で、御神体は神鏡です。社伝によれば、創建は醍醐天皇の御代の延喜十七年(917)です。武家の崇敬極めて厚く十一世紀末、八幡太郎義家(源義家)が奥州征伐(後三年の役)に赴く途中、侍人を当神社に代参させて戦勝を祈らせたといわれています。江戸時代の初め、稲垣若狭守重太の長臣田村茂兵衛が当地(須賀広)に陣屋を築き、以後この地を治めました。その後、寛永十一年(1634)に、稲垣氏から当神社に御供米四百五十俵(約27,000kg)、燈明料として七十坪の土地が寄附され、累代崇敬されていました。また、明和三年(一七六六)当神社本殿再建遷宮式のとき、時の若狭守が自ら参拝して多額の幣帛料を寄進しました。それからは、須賀広・野原・小江川地区等、稲垣氏所領の村民の崇敬益々厚くなったと伝えられています。大祭は毎年十月に行われ、獅子舞が奉納されています。この獅子舞子は三人で長男に限られ、当日は氏子一同社頭に集まって舞を奉納披露し、その後地区内を一巡するきまりとなっています。(「境内案内板」参照)延喜十七年(917)に創建されたと伝えられる当神社は、和田川の清流を南に臨む丘陵上に鎮座し、杉を中心とした老木が生い茂る広い神域には古社の雰囲気が感じられます。社伝によれば当神社は、創建以後「弓矢八幡」と呼ばれ、世々武門武将の崇敬が厚く、上野国山名八幡と共に、上武両国に名高かったといいます。更に永保・寛治の時代(1081~1094)には、八幡太郎義家が奥州征伐の途中、侍臣を代参させて戦勝を祈願したという伝えもあります。下って江戸時代、当地を領した近江国山上城主稲垣若狭守重太は当神社を厚く崇敬し、後年若年寄に昇進するに当たり、当社に御供米四百五十俵と灯明田七十坪を寄進し、更に宝暦十年(1760)、一説には明和三年(1766)、当神社の本殿再建遷宮式に際して若狭守自ら参拝して多額の幣吊料を奉納したといわれています。同家による崇敬はその後も続き、小江川の保泉寺にある同家霊廟に子孫が参拝に行く時には、当神社にも必ず立ち寄って参詣したと伝えられています。明治四年(1871)古来須賀広の鎮守であった当神社は村社になり、明治四十一年(1908)二月には、字前新田に鎮座していた神明社を当神社境内に移し、摂社として祀るようになりました。また、当神社の拝殿は従来草葺きでしたが、維持が大変なこともあって、昭和三十一年(1956)には、八幡様の神使である鳩の姿を棟の上にあしらった優美な瓦葺きに改められました。(「埼玉の神社」参照)須賀広八幡神社「ささら」須賀広地内の八幡神社では十月に、文化元年(1804)に滑川町羽尾の諏訪神社から伝わったという「ささら獅子舞」が奉納されています。獅子舞で用いられる御面には、元文年間(1736~1741)の墨書が残り、その時代の地域祭礼芸能の伝承を明らかにしています。(サイト「熊谷市Web博物館」参照)