山の南斜面に佇む神社。
八幡神社(野原)の特徴
野原八幡神社は誉田別命を御祭神として祀っています。
境内には雷電神社や三峯神社など多様な社が点在しています。
近くには古墳群が存在しますが、具体的な情報は不足しています。
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急な坂ではないけど、足にきます。
山の南斜面にあるおやしろです。
古墳群の存在は書かれているのですが、具体的な場所や写真はなく、そこに残念さを感じました。
境内に車を停められるスペース有り。
名前 |
八幡神社(野原) |
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ジャンル |
/ |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.6 |
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野原八幡神社(のはらはちまんじんじゃ)御祭神 誉田別命境内社 雷電神社 三峯神社、鹿島神社、合殿(愛宕神社・山之神社・稲荷神社・天満天神社)由緒当神社の御祭神は、誉田別命です。社蔵の九石は、創建当初から祀られていると伝わり、神霊の宿る石として大切にされています。創建年代は明らかではないですが、造営は棟札によると、寛永十年(1633)当地が武川衆の後を受けて稲垣家の領地になったことから、寛永二十年(1643)二月、稲垣安芸守が村内の安泰を祈り、家臣の田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが記されています。ちなみに、稲垣家は当地を領した時、幕府御書院頭の職にあり、後に六千石の大身となりました。次いで、当地は幕府御料所となり、更に元禄十一年(1698)六月には、前田安芸守の領地となりました。棟札によると、宝暦十一年(1761)九月、領主前田半十郎が、家臣内貴与在右衛門に命じて本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されています。また、拝殿前にある一対の石灯龍は、天保三年(1832)六月、前田信知の後室が「武運長久、家土安穏、村民安全」を祈って奉納したものです。なお、前田家は当地を領して、以来、幕末まで当神社に御供米一斗二升を毎年献納したといわれています。別当については変遷が見られ、寛永二十年(1643)の棟札には「別当金蔵院源覚法印」、宝暦十一年(1761)の棟札には「別当正宝院源久法印代」の名が書かれ、更に「風土記稿」には幸手不動院配下の本山派修験八幡山大徳院が載っています。明治維新になると、別当大徳院は復飾して森本肇と名乗り、明治二年(1869)に神祇官から教導職を許され、明治十年(1877)には祠掌に補せられました。(「埼玉の神社」参照)「踊る埴輪」出土地「野原古墳群」八幡神社の境内に二体の「踊る埴輪」モニュメントがあります。八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布しています。荒川の一支流和田川に面した南傾斜の小高い丘にある古墳は、昭和初年には三十余基を数えましたが、開墾や採土等により損壊され、今は二十数基を残すのみとなっています。昭和五年(1930)出土し東京の国立博物館が所蔵している、有名な「踊る埴輪」が出土した前方後円墳も神社西方にありましたが、現在は開墾されて桑畑となり、その跡をとどめていません。これらの古墳の築造は、六世紀後半から七世紀前半にかけて行われたものと考えられ、当時この地方にかなりの勢力をもった豪族が居住したことを物語っています。「踊る埴輪」レプリカは、熊谷市江南文化財センターにも展示されています。(「境内案内板」参照)