高塚駅近くの神聖空間、八咫烏の御朱印。
熊野神社(高塚熊野神社)の特徴
賑やかなイベントの日には大きな太鼓が響き渡り、境内が活気に満ちている。
紀州の熊野権現を勧請した歴史ある神社で、平安時代からの信仰を受け継いでいる。
鳥居を北に進み、徒歩5分でアクセス可能な高塚駅近くの魅力的な小さな神社です。
電車の待ち時間を使い参拝しました。高塚駅前にある静かで雰囲気が良い神社です。
今日は高熊市の日でした✨桜🌸も綺麗に咲いていて見頃で良かったです✨
参拝用駐車場もすぐにわかり迷うことなく到着。那智で見つけられなかった珍しい甦守と御朱印を頂き、大満足でした。別社もご利益満載です。
直書きの御朱印いただきました。後三条天皇の延久年間(1069年〜1073年)頃、諸国を旅していた熊野本宮大社の神主によって創建されたと伝えられている。ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という夢を見たため、神社の裏山に盛り土をした。その後、安政の大地震が発生し津波により大きな被害が出たが、この里の人々は神社の裏山に避難をして難を逃れることができたという。 別の説として、明応地震の津波の犠牲者をこの地に葬り、浜からたくさんの砂を運び、大きな墓を築いた。沢山の砂浜からを運んで(浜垢離の起源)高い塚を築き、高塚の地名の由来となった。1601年(慶長6年): 伊奈忠治(関東代官頭)により黒印地5石目を寄進される。1804年(享和4年): 灯篭を小野田五郎兵衛氏が奉納。1871年(明治4年): 神仏半然令に従い熊野三社権現から熊野神社へ改称。1910年(明治43年): 大字高塚が入野村から浅場村へ編入される。1925年(大正14年)3月 : 村社から郷社への昇格をはじめて申請する。1937年(昭和12年): 灯篭を高橋英一氏が奉納。1940年(昭和15年): 狛犬を稲垣勇太郎氏、浄水鉢を和久田昂が奉納。1941年(昭和16年)4月10日 : 郷社へ昇格。1965年(昭和40年): 灯篭を宮崎達氏が奉納。1966年(昭和41年)5月 : 拝殿を改築。1979年(昭和54年)8月 : 別社改築。1981年(昭和56年)7月1日 : 6級社に指定される。1986年(昭和61年): 手水屋完成。1991年(平成3年): 旧社務所を駐車場新設のため撤去。1993年(平成5年)10月 : 社務所・授与所完成。2007年(平成19年)5月1日 : 浜松市が政令指定都市に移行に伴い高塚町が南区となる。2022年(令和4年)5月29日 : 北参道完成。950年祭を斎行とのことです。
初めて行った神社ですがイベントがあった日で大きな太鼓を沢山の方が叩いていて賑やかでした。神社内にはおみくじや御守りの販売あり駅も徒歩でいける距離なので行きやすいです。
無料駐車場あり、御朱印あり。そんなに大きくない神社ですが、熊野と共通の八咫烏、なぎの木など、直前に熊野に訪問しており、偶然ですが嬉しくなりました。
八咫烏ポストが気になる存在御朱印は月限定含め5種類がある階段はあるが、階段を避けた坂道もある。
駐車場は神社正面の左側に2ヶ所有りました。整備された良い神社でした🙏お昼なのに御朱印三種類の対応ありがとうございました☺️
今から千年ほど前の平安時代に、紀州にある熊野神社の熊野権現を勧請した神社で、熊野三社権現と称されていました。江戸時代末期の安政年間、神主が「高い丘を作って民を救え」というお告げを夢で見たことにより、村人が協力して土を盛って避難したおかげで、1855年に発生した安政の大地震に伴う津波から、多くの命が救われたと言い伝えられています。また一説には、安政の大津波の犠牲者を埋葬し、その上に浜の砂を盛り上げて高い塚を築いたとも言われています。その言い伝えの通り、高塚熊野神社自体が標高9mほどの場所に建築されていて、本殿東には案内看板に「お宮の山」とある、標高12mほどの土盛り(高い塚)があって古い巨木が生えています。「高塚」の地名はこの土盛りに由来するとされ、高塚熊野神社の名称自体も「高い塚の上に築かれた熊野神社」の意味だったのではないかと思わせます。地名「高塚」の由来は、江戸時代の「津波マウンド」だったのですね。〔写真1〕拝殿と樹齢500年のご神木(左端)〔写真2〕高塚熊野神社を裏側から見たもので、右端は神社本殿。「高い塚」の状態がよくわかります〔写真3〕「高い塚」の頂上部で、標高は約12m
名前 |
熊野神社(高塚熊野神社) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
053-448-2288 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.4 |
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とても神聖な空間です。何度も御参りさせて頂いてます。御神木は圧巻のパワーを感じます。神様へのお手紙は素敵です!また参拝させて頂きますね。