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| 名前 |
道祖神 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
①こうなんの歴史アルバム3「わがまち港南の石仏たち・下巻」より当時の芹が谷中央付近は、芹が谷川沿いの古道が、芹が谷中学の敷地南側を通って武相国境へ通じていました。この道祖神塔は学校敷地の南側の古道に馬頭観音塔とともに建っていましたが、学校建設で校庭に移設されました。②「神奈川県の道祖神調査報告書(神奈川県教育庁 文化財保護課)」昭和56年3月横浜市 道祖神塔 所在一覧表 (昭和49年2月1日現在)より横浜市港南区下永谷町1085番地道祖神は、芹ヶ谷の字芹ヶ谷の人々によってまつられていた。戸数は、 昭和二年頃までは、若林・高橋・森・秋元・福元姓の八戸であった。なお芹ヶ谷ムラは、セリガヤ・ワタド・カマスヤマの三字で構成されていた。道祖神はセイトと呼ばれている。祭場は、バス停留所「渋谷台住宅前(現在:せりぎんタウン)」の北側斜面、雑木林の中である。この場所は、かつては旧道に面したところであった。道祖神の周囲には数本のモチの大樹が植っている。道祖神の背後に位置するモチの幹にはシメが供えられていた。碑形は角柱で、銘は正面に「道祖神」、むかって右側面に「弘化四未年 三月吉日」(1847年)が陰刻されている。寸法は、塔身は現状で高さ四三糎 、横幅二二糎、厚さ一五・五糎を計る。台座は、塔身の下部が埋没しているため、存在は明らかでない。石塔の前面左右には、五輪塔の火輪と思える石が埋まっている。セイトヤキの行事は、昭和三五年頃まで、正月十四日の午後一時頃に、 左記の道祖神塔の前でおこなわれていたが、交通・住宅などの諸事情によって中止され、現在では各戸の所有田あるいは畑で、正月の飾り物を十四日に焼いている。以下、昭和二十五年頃の行事の内容を述べる。正月十四日前に山に入りナラの木をとる。それらは、先端が三叉になっている全長二米ぐらいのもの一本と、うちかざり用の枝六本である。十四日の朝に、ウルチの粉でセイトダンゴとマエダマを作り、前記のナラの枝にならす。マエダマをならした六本の枝は、大神宮・大黒・荒神・仏壇・ 俵、臼に供え、飾りつける。セイトダンゴは径十糎ほどのもので、丸い状態で三叉にさした。ダンゴの色は、赤・白が普通であったが、家によっては青を加えたり、白ばかりの例があった。なお大神宮には、マエダマとともに、アボへボを供えた。このアボヘボ は、ウツギとカンバンの木の新芽を約三十種ほどにきり、二対一の割合で、半紙でくるんだものである。カンバンは現在ではほとんど見かけることが出来なくなった木といわれ、その当時でも、この木を探すのに苦労し たといわれている。一方、道祖神塔の周辺の清掃がおこなわれ、石塔をおおう祠が造られ た。祠の柱はシノダケを使って、高さ五十糎ぐらいに建てられた。次に柱の頂部にシノダケをわたし、棟をおくが、棟となるシノダケにはワラナワをまき、棟らしく造作された。屋根はワラで葺いた。祠は、いわば切妻の仮の祠であった。またかん酒をするための石組が造られた。これらの仕事を進めている途中に、各戸から、正月七日にさげた正月の飾り物や旧年中のお札が運ばれ、祭場につまれる。また十四日前に各戸で集金した金で、東海道沿いの店まで出かけて買い求めたミカン・菓子など、準備がおこなわれた。これらは子供たちに与えるためであった。火つけの時刻が近ずくと、子供たちは、セイトダンゴと、「奉納 道祖神」と書いた書初を持って集まる。火つけは、積まれた飾り物の中央に 「ゴリンノイシ」と呼ばれる丸石を入れてからおこなわれた。子供たちは、煙が高くのぼり始めると、競って書初を煙にのせて高くあげた。書初が一番高くあがった子供は、字が上手になるといわれていた。 大人たちは、かん酒をくみかわし、世間話を始める。火がおちつきはじめると、セイトダンゴを焼き始め、焼きあがると三個のうち一個を交換し た。このダンゴを食べると風邪をひかないといわれ、家に持ちかえり、家族でわけて食べた。またヤキボックリのなかから、二十糎弱のスミ(松) をとり、家に持ち帰り、トンボグチにつるした。これは盗難・火難よけの呪いといわれていた。なお道祖神塔の祠は、来年のセイトの日までの祠とされ、毎年、十四日に新しい祠が造られ、旧年中の祠はセイトの火で焼かれた。話者・若林愛之助(明治四四年生)