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2026年5月1日付で新宿区指定史跡・指定第137号となったばかりの川合玉堂旧居跡。現在は若宮町29番地の「若宮ハウス」が建ち、川合玉堂の邸宅・画室そのものは残っていません。一見すると普通の住宅地ですが、川合玉堂が明治36年(1903)から昭和19年(1944)まで約41年間暮らし、日本画壇を代表する巨匠へと成長した「若宮時代」の制作拠点です。旧邸は昭和20年(1945)5月の空襲で焼失しているため、現在見るべきものは建築遺構ではなく、玉堂が長期にわたり生活・制作した土地そのものです。川合玉堂、本名・芳三郎は明治6年(1873)、現在の愛知県一宮市に生まれ、14歳で京都へ出て望月玉泉、のち幸野楳嶺に学び、円山・四条派の写生を修得。明治29年(1896)に上京して橋本雅邦に師事し、狩野派の力強い線描を吸収しました。明治31年には雅邦らと日本美術院創立に参加。上京当初は麹町に住み、明治34年(1901)に牛込区若宮町へ移り、明治36年12月に現在の若宮町29番地へ居を構えました。ここから昭和19年の疎開までが、玉堂の画歴の中心部分とほぼ重なります。若宮時代の玉堂は、明治40年(1907)に《二日月》、大正5年(1916)には代表作《行く春》を発表。大正4年には東京美術学校教授、大正6年には帝室技芸員となり、昭和15年(1940)には文化勲章を受章しました。《行く春》は現在、東京国立近代美術館所蔵の重要文化財で、六曲一双、各183×390cmという大作。秩父・長瀞から川舟で下った際の取材をもとに構成された作品で、若宮町に暮らした時期の玉堂芸術を象徴する一点です。昭和17年(1942)の《山家早春》については、東京富士美術館が明確に「牛込若宮町の画室時代に描かれた」としています。この旧居を語るうえでもう一つ重要なのが、建築家吉田五十八です。新宿区の2026年の文化財解説では、明治36年(1903)に建てた家について続けて「建築家吉田五十八の設計」と記されていますが、これは文字通りには成立しません。吉田五十八は明治27年(1894)生まれで、1903年にはまだ8~9歳です。東京藝術大学も1894~1974年としています。一方、建築史料を調べると事情がかなり明瞭になります。昭和11年(1936)の『建築世界』4月号には、吉田五十八本人による「川合玉堂画伯の画室を語る」が掲載され、住宅改良会『住宅』21巻6号にも同年「川合玉堂氏邸」が吉田五十八の仕事として掲載されています。『吉田五十八作品集』を典拠とする建築研究でも「川合玉堂邸・画室」を1936年の作品とし、別資料では「牛込若宮町増築後」と明記されています。したがって公開資料を総合すると、1903年に玉堂が建てた旧邸へ、1936年頃に吉田五十八が画室を中心とする増改築・再構成を行ったと理解するのが最も整合的です。完成後の邸宅には二つの画室があり、その広壮さから「牛込御殿」と呼ばれたと新宿区は説明しています。吉田は、伝統的な数寄屋建築から余計な柱や装飾を整理し、近代生活へ適応させた「新興数寄屋」を確立した建築家です。川合玉堂邸はその初期の重要作に位置づけられ、建築史研究でも1936年作品として扱われています。皮肉にも、この吉田設計部分を含む邸宅は戦災で失われましたが、玉堂没後の昭和36年(1961)に青梅・御岳へ開館した玉堂美術館も吉田五十八が設計しています。牛込の画室から青梅の記念館まで、両者の関係が続いたことになります。玉堂は制作だけでなく教育者でもあり、私塾「長流画塾」で300名を超える塾生を指導しました。明治38年には東上10周年を記念して長流画塾の研究大会と園遊会を開催し、明治42年には門下を中心とする下萌会も形成。昭和15年にも玉堂以下、門生140余名が傷痍軍人慰問のため作品を献納した記録があり、若宮町時代は一画家の私生活だけでなく、近代日本画の人材育成・画壇形成の拠点となった時期でもあります。玉堂と牛込地域との関係は作品にも残っています。新宿歴史博物館の資料では、旧津久戸小学校所蔵の《富嶽》、愛日小学校55周年記念として贈られた玉堂作品など、地域の学校にも作品が受け継がれてきたことが確認できます。単に「有名画家が住んでいた」というだけでなく、牛込の地域文化と実際に関係を築いていた人物でした。昭和19年(1944)7月、71歳の玉堂は長年写生に訪れていた西多摩郡三田村御岳、現在の青梅市御岳へ疎開。同年12月には古里村白丸へ移りました。この頃に歌集『若宮集』をまとめています。翌昭和20年5月、若宮町の邸宅は空襲で焼失。資料によれば、玉堂はその報を疎開先で聞き、焼け跡を見ることもなかったと伝えられています。戦後は東京へ戻らず御岳を終の住処とし、昭和32年(1957)に84歳で亡くなりました。現在建つ若宮ハウスは、公開されている不動産資料では昭和53年(1978)7月築、RC造4階建て。したがって、目の前の建物を川合玉堂旧邸と誤認してはいけません。指定対象はあくまで玉堂旧居の史跡としての場所です。現役の集合住宅ですので、敷地内へ立ち入って見学する場所ではなく、公道から静かに確認するのが適切です。牛込神楽坂駅から徒歩約5分、飯田橋駅からも徒歩圏内です。