牛久保城で歴史の息吹を感じよう。
牛久保城跡の特徴
牛久保城は三河国の歴史が感じられる場所で、石碑や案内板があります。
礎石や土塁、堀跡が残る遺構には想像力を掻き立てられます。
牛久保駅から徒歩3分の距離で、アクセスも良好です。
碑以外には特にないっす。
令和五年四月九日の若葉祭(うなごうじ祭)の日に来ました。祭りの幟が立てられていました。
目立つようで目立たない場所にあります。はじめてこのあたりを散策した時は見つけられませんでした。まあ、地図も持たずに来たので当然なのですが。改めてきた時もただの公園に思えてスルーしそうになりました。城跡を想像するには、少し厳しいですかね。石碑を見てやっと想像できるといったところです。城址内の解説看板の古地図を見ると、長谷寺(山本勘助の墓)や大聖寺(今川義元公墓)のすぐそばまで堀があったようなので、そこそこ大きかったようですね。石垣くらい残っていたらよかったのになぁ、と思いました。
スタバから牛久保駅に向かう途中でたまたま見つけた牛久保城。思わず小躍りしてしまった。(2021_12_24)
JR飯田線牛久保駅横の踏切を渡るとフェンスに囲まれた場所があります。そこが牛久保衆を束ねた牧野氏の居城「牛久保城址」主郭付近です。
牛久保駅のロータリーに車をちょっと停めて、踏切を渡ったところに石碑と説明板がある一角があります。
街中でよく残してくれてありがとうございました。
牛久保城(うしくぼじょう)は三河国宝飯郡牛久保(はじめ牛窪、後に牛久保に改称)、現在の愛知県豊川市牛久保町にあった日本の城(平城)。三河国聞書・三河国二葉松によると、牧野出羽守保成の築城。 天正18年(1590年)に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡(群馬県前橋市河原浜町)に2万石を領して移動した。牛久保城は吉田城(愛知県豊橋市今橋町)に入った豊臣家臣池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久(平左衛門)が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は牛久保周辺は天領となり、城郭の一部が代官所になるなどして機能していたが、元禄13年(1700年)に廃城となった。
こちらは想像力が必要な遺構ですが、大通り向かいの稲荷社には堀跡や土塁、井戸らしき遺構が見受けられます。大通りの交差点名は、城跡。
名前 |
牛久保城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0533-89-2206 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.5 |
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三河国聞書・三河国二葉松によると、牧野出羽守保成の築城。天正18年(1590年)に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡(群馬県前橋市河原浜町)に2万石を領して移動した。牛久保城は吉田城(愛知県豊橋市今橋町)に入った豊臣家臣池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久(平左衛門)が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は牛久保周辺は天領となり、城郭の一部が代官所になるなどして機能していたが、元禄13年(1700年)に廃城となった。現在は特に遺構らしきものはありませんが石碑と看板があります。