発掘中の真壁城跡で歴史を体感!
真壁城跡の特徴
平城として本丸や外曲輪の遺構が魅力的で見応えがあります。
真壁氏の居城としての歴史を感じる国指定史跡です。
発掘作業が進んでおり、復元された堀や土塁が印象的です。
以前真壁城を紹介していた動画などを見て、本年3月頭頃にちょっと立ち寄ったのですが、正直衝撃を受けました!城域の広さ、復元の見事さ、ロマンをかきたてる庭園跡など、どれをとっても一級品だと思いました。アクセスも真壁体育館に止めて、すぐのところにあるため、見学しやすいことも好感度抜群ですし、筑波山とのコントラストも見事。今後の発掘の成果に期待しております😊
承安2年(1172)大掾長幹が真壁を名乗り築城した、と云われている連郭式の平城。復元した所と現存する所が上手くマッチしていて、とても見応えのある城址になっています。曲輪・堀・土塁・虎口等の遺構を見ながら散歩(?)もできて楽しかったです。(◔‿◔) 国指定史跡になっているのも納得でした。
真壁城は国の史跡に認定されている。貴重な平城(中世城館)の遺構である。真壁城は隣のつくば市にある小田城と同様の城館跡であるが、現在まだ発掘&整備の途中であり現状たいして見るところはない。一部土塁や堀、虎口が復元されている程度である。しかし、遺構は面積的にはかなり広く本丸の大部分は体育館になってしまっているが、二の丸〜四の丸は草地なので今後整備が進めば中世の城館遺跡として期待が持てる。小田城跡と同じように整備できるのではないだろうか。真壁城は平安末期に真壁氏によって築かれた。その後も真壁氏累代の居城として鎌倉、南北朝、室町時代も引き続き使用されたが、関ヶ原の戦い後の佐竹氏の秋田移封に伴い家臣となっていた真壁氏も転出。江戸時代前期には真壁藩藩庁として使用されたが、後に藩庁は笠間城へと移ったため真壁城は廃城となった。
平城ながら本丸から外曲輪まで遺構が遺っており、見応えの有る城跡です。数年前から発掘調査と整備が行われていますが、まだ数年かかる様です。
多気直幹の四男の長幹が築城、真壁氏を名乗るようになり、以来真壁氏の居城として続きました。鬼真壁こと真壁氏幹もここを守っていたのですねえ。筑波山の北側に位置している大規模な平城です。現在、発掘調査が進められているなか丁寧に整備されているのでとても見学しやすかったです。本丸を囲んでいたであろう堀は大部分が埋められているが、東側の堀は現在も残っていて、あまり手を加えられていないようだった。そのため本丸東側の堀は往時のものに近いのでしょう。その他の堀に比べても幅広く深いのが分かります。土塁なども復元しつつ往時の雰囲気がよく味わえます。また一部、残存土塁もあります。外曲輪(鹿島神社周り)の土塁や堀がよく残っています。建築物は残っていないのですが、桜川市(旧大和村)の楽法寺にある黒門が、真壁城から移築した薬医門だそうです。機会があれば訪問しようと思います。
つくば方面にツーリングがてら寄ってみました。広大な敷地に残る土塁や空堀、居住施設跡などが見られます。ちなみに城内発掘調査中?整備中?なのか、ところどころ立入禁止とブルーシートがありました。■見どころ:土塁、堀、曲輪など■バイク置き場:真壁体育館駐車場。
体育館のある主郭からⅡ郭、Ⅲ郭へと進み、Ⅲ郭東の土塁上から見ると彎曲した三の堀やⅣ郭が良く見えます。 見渡すだけでも広大な城域だと思いますが、これでも当時の城郭の東半分程度と言う事になると、これ程の平地の城郭を維持できる真壁氏の勢力の大きさに驚かされます。 南東端の鹿島神社まで行き、中世の土塁を見ました。 ここだけは山城の様に高さと深さのある堀を見る事が出来ました。 真壁城の南西角に当る大林寺近くの土塁と水路を見て、改めてこの城の広大さを認識しました。 (2012年登城)
発掘調査を終えたのか小田城の様に綺麗に整備されています。様々な遺構をポイントで案内文にて説明して下さってるので歴史を感じる事が出来ます。コンクリートの部分もあるので歩きやすく、散歩には丁度良い城跡ですね。
国指定史跡真壁城跡常陸国真壁郡にあった真壁氏が代々居城した戦国時代の平城で、江戸時代に入って廃城になりました。現在の城跡は本丸を中心に西側が市街地化し消滅しているが、本丸以東は平成9年以降発掘調査が続けられ成果に基づき外曲輪の土塁や壕が復元されています。構造として中央の本丸を囲む二ノ丸、東側に三の郭(中城)四の郭(外郭)があり外郭南東端には鹿島神社が祀られています。それぞれ堀や土塁で仕切られており散策が可能です。現在も発掘調査は継続中。【アクセス】本丸跡にある体育館の駐車場が利用できます。#お城 #城 #城跡 #茨城県 #真壁城#城好き。
名前 |
真壁城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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大掾(多気)直幹の四男長幹が真壁郡に入部し、真壁氏を名乗って古代の真壁郡家があった場所に承安2(1172)年築城したのがはじまり。応永30(1423)年の小栗氏の乱では真壁氏が小栗方に味方したため、鎌倉公方に攻められ落城したが、後に復帰。その後は真壁氏は古河公方や小田氏、佐竹氏と同盟離反を繰り返し戦国時代を生き延びたが、小田原の役の功で秀吉から常陸54万石の朱印状を得た佐竹氏の臣下となる。18代鬼真壁こと氏幹の時、甥の柿岡城主・房幹に家督を譲ったことで真壁城は真壁本家の居城ではなくなった。慶長7(1602)年、佐竹氏の秋田転封に従って真壁房幹も出羽角館へ(1500石)、これにより真壁城は空城となる。慶長11(1606)年浅野長政が真壁藩5万石で入封、元和8(1622)笠間城へ移封(真壁藩は廃され笠間藩の飛び地となる)となり、真壁城は廃城となった。東西850m・南北400mもの広大な平城でしたが、中央の本丸は真壁体育館の敷地となり果て、西と南側は真壁の市街地となってほぼ煙滅。しかし東側は大規模な発掘と史跡公園整備事業が続いており、その様子は本当に素晴らしい。ことわざで表現するなら「女房を質に入れても真壁城」「真壁城を見てからしね」と。是非見物に行くべき場所でありましょう。