千石で語り継ぐ、供養の心。
地震焼亡諸霊魂大菩提塔の特徴
地震焼亡諸霊魂大菩提塔は災害の記憶を伝える重要な場所です。
碑名が170年前の江戸の惨禍を静かに物語っています。
一行院境内にある大きな石造の供養塔が印象的です。
千石に残る「地震焼亡諸霊魂大菩提塔」は、碑名そのものが、この土地に災害の記憶が刻まれていることを静かに伝えてきます。「地震」「焼亡」「諸霊魂」という語が並ぶことで、揺れそのものだけでなく、その後の火災まで含めて亡くなった人びとを弔うための供養塔であることがうかがえ、ただの石塔として見過ごしにくい重みがあります。江戸では安政2年の安政江戸地震で倒壊と火災が広く生じ、多くの犠牲者が出ましたから、この塔もそうした災害記憶の延長で受け止めると、千石の町の歴史が急に近く感じられます。千石は今では落ち着いた住宅地ですが、こうした供養塔が残っていることで、日常の景色の奥に江戸から明治へ続く災害の記憶と追善の思いが折り重なっていることを感じました。由来を少し意識して前に立つと、土地を見る目が自然と深まる場所です。
| 名前 |
地震焼亡諸霊魂大菩提塔 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
【「地震焼亡諸霊魂」――170年前の江戸の惨禍を今に伝える供養塔】文京区千石の一行院境内に立つ、大きな石造の供養塔です。この塔は単なる古い石塔ではなく、安政江戸地震で亡くなった人々を供養するための塔のようです。安政2年10月2日、現在の暦では1855年11月11日の夜10時頃、江戸をM7程度と推定される大地震が襲いました。特に本所・深川など江戸東部の被害が大きく、家屋倒壊だけでなく地震直後に各地で火災が発生。東京大学地震研究所では、地震と火災によって7,000人以上が亡くなったとしています。内閣府の調査でも、当時の江戸が受けた甚大な被害が詳細に検証されています。そうした歴史を知ってから見ると、この塔の「焼亡」という文字の重さが違って見えます。【裏側まで見てほしい石塔】私が特に興味深いと思うのは、表側だけではこの塔の意味を十分に読み取れないところです。一行院によれば、塔の裏面には当時の増上寺第66世・冠誉慧厳の筆による歌が刻まれています。慧厳は1851年に増上寺第66世となり、実際に地震遭難者の追悼法要を営んだ人物でもあります。浄土宗の資料でも増上寺66世が冠誉慧厳であったことが確認できます。刻まれているのは徳本行者にちなむ、「南無阿弥陀仏と申積たる石塔ハ尽ても功徳はつくることなし」という歌です。この一節を知ると、震災犠牲者の名前を個別に刻んだ慰霊碑というより、南無阿弥陀仏の名号と念仏の功徳によって、多くの亡き人々を等しく弔おうとした浄土宗の供養塔として見ることができます。【なぜ一行院にあるのかも面白い】一行院は浄土宗・天暁山一行院満徳寺。寛永3年(1626)にこの地に建立されたとされ、江戸後期の念仏行者・徳本行者が最期を迎えた寺としても知られています。徳本行者は諸国を巡って念仏を広め、文化14年(1817)には一行院がその活動の拠点となり、翌1818年にここで往生しました。現在も境内には徳本行者の墓が残り、東京都指定旧跡となっています。つまりこの震災供養塔は、たまたま寺の片隅に置かれた石碑ではありません。徳本行者の念仏信仰を強く受け継ぐ一行院で、幕末江戸最大級の災害による死者を「南無阿弥陀仏」によって供養する。そこまで知ると、この塔とこの寺とのつながりがかなり鮮明に見えてきます。【災害を「記録」するだけでなく「供養」する】現代では大震災が起これば、被害人数や震度、倒壊棟数といった数字で記憶することが多いと思います。しかし江戸の人々は、それだけではなく、石塔を建て、名号を刻み、念仏し、亡くなった人々を長く供養するという形でも災害を後世へ伝えていました。私はこの塔を、単なる「安政江戸地震の記念碑」として見るよりも、災害の記憶と死者への祈りが一つになった石造物として見る方が、その本質に近いように感じます。一行院を訪れると、どうしても有名な徳本行者御廟に目が向きますが、この震災供養塔もぜひ見落とさず、できれば正面だけでなく裏面まで見てほしいと思います。170年以上前、大都市江戸を突然襲った地震と火災。そこで亡くなった無数の人々のために祈った人がいて、その祈りを刻んだ石が、今も千石の住宅街の中に残っています。災害の数字を知る場所ではなく、その数字の一人一人に人間の生涯があったことを思い出させてくれる場所でした。