梶塚成志の一死報恩、立派な墓石。
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| 名前 |
徳川氏遺臣梶塚成志墓 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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梶塚成志の『一死報恩』ここに、一基の立派な墓石がある。慶応4年閏4月7日上総畑木で戦死した旧幕府軍梶塚成志という人物のものだという。表面は、江原鋳三郎(素六)の筆によるものらしく、左下「友人 江原素六」とある。裏面の「一死報恩」という文字は、大鳥圭介の題字であるという。背面にびっしりと刻まれた文を読もうとするも、下部四分の一が土手に埋まり、雑草も生い茂っていたため、読むことはかなわなかった。村上観音寺付近の戦いで、観音寺を焼失させた新政府軍(藤堂藩)は、更に前進し、養老川を渡河した後、軍勢を二手に分け、海保・畑木で旧幕府軍徳川義軍府(撒兵隊)第三大隊の一部と交戦に至った。畑木の銃撃戦は激しく、両陣営とも一進一退の状況であったが、中谷方面から廻り込んだ新政府軍藤堂藩の狙撃が功を奏し、旧幕府軍を敗走させた。戦場に残されたのは、旧幕府軍兵5名の屍であったという。そのうちの一人が梶塚成志であった。史料が乏しく、この人物の詳細は不明だが、江原鋳三郎(素六)が友人と称し、大鳥圭介が題字を著す程の人物である事から、(徳川義軍府兵は他に4名戦死しているが、この様な立派な墓石ではない様で、祖師堂奥の墓地にあるようだ。)幕臣(下級・御家人)であろうと思われる。戊辰戦争を戦い、戦死した梶塚成志の『一死報恩』は当に、死をもって幕府恩顧に報いるという事であったろう。