南北朝の激闘跡、瓜連城の魅力。
瓜連城跡の特徴
南北朝争乱の激戦地である、歴史ある城跡です❗
保存状態の良い土塁と空堀が周辺に残っています☺
那珂八景の一つで、広く気持ちいい風景が楽しめます。
常福寺の駐車場に停めて、参拝してから見学しました。このお城は、南朝方の楠木正成の甥、楠木正家が、東国経営の拠点として、1336年に瓜連城に入場したが、北朝方の佐竹義篤の総攻撃を受けて、同年の12月に落城しました。常福寺の境内は、楠木正家の拠った瓜連城の本丸跡で、北東面は高低差が20mある急な崖となり、土塁は2段に構築され、所々に出丸があります。瓜連城の広さは、外郭を含めると、700m四方の規模となります。空堀は、お寺の右側のお墓の下にきれいに残っています。お寺の裏には、とても広い郭が周りの土塁まで、続いています。左側の土塁の角には、源太郎稲荷神社が鎮座しています。まっすぐ土塁に歩くと、下の堀に降りられる階段があります。そこは、空堀でもあり、帯曲輪のようにも見えます。その空堀を左に歩くと、保育園の駐車場に出ます。瓜連の町の近くに、これ程広くて自然が残されている場所があるのには、驚きました。
延元元年(1336)楠木正成の甥っ子の正家によって築城されたが、佐竹義篤との戦いで落城した。常福寺の境内部分が本丸だったそうで、堀や土塁がしっかりと残されています。
寺の裏に行くと空堀や土塁の跡を見ることができる。建武3年・延元元年(1336年)楠木正家によって築かれた。 南北朝時代南朝方の楠木正成の代官楠木左近蔵人正家が南朝方の拠点として瓜連城を築き、北朝方の佐竹氏などと対峙した。 瓜連城には楠木正家他、大掾高幹、那珂通辰など近隣の南朝方の勢力が集結した。一方北朝方の佐竹氏は主力が足利尊氏に呼応して各地を転戦していたこともあり、留守部隊である貞義は劣勢であった。それでも貞義は建武3年2月6日に瓜連城を攻めるなど南朝方に対抗したが、子の義冬などが討死して敗走した。居城の太田城では支えきれないと判断して金砂山城に籠もった貞義を、同年12月に南朝方の那珂通辰が攻撃したが天険の要害を巧みに利用した佐竹軍に敗れ、瓜連城に退く途中に退路を断たれ那珂氏一族43人(あるいは34人)は自刃して果てた。一方佐竹氏は貞義の子佐竹義篤が武生城から迂回して瓜連城を急襲し瓜連城は落城した。
常福寺の境内周辺が城址になります。一部損壊しているものの高い土塁や空堀も良好に残っています。
土塁の一部がよく保存されている。杉林なので今の時期は花粉が大量に降り注ぐ。
那珂八景の一つである、瓜連城跡地。お寺の裏地は他の方も書いてある通り高低差がかなりありお堀であった事は伺える。南北朝時代、室町、江戸と時の政権に翻弄され廃城になったり焼失したりと想像していたらトキの声が上がり、すわ、戦国武将の幽霊か!と思ったら、隣の保育園から元気な子供の声が聞こえてきました(笑)
瓜連城に、びっくりです。
広くて気持ちいいところ。歴史も知れて楽しい。
初めて見たのですが、立派でしたです。
名前 |
瓜連城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
029-298-1111 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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南北朝期、楠木勢と佐竹勢の合戦で有名な城。陸奥の北畠勢の上京に連動しているので広域でみても面白いし、那珂川、久慈川流域の常陸北部の覇権をかけた争いとして見ても面白い。そもそも元々佐竹氏の勢力範囲だったものが、頼朝の佐竹征伐でこの辺りが北条氏の直轄領になっていたのが遠因。北条一門桜田氏が築いたとされるのも頷ける。城の遺構は思ったよりよく残っており、お寺の奥の崖面は見応えある。堀切のようになった部分から崖の中程の腰郭っぽい場所に抜けられ久慈川方面への備えの堅さがよくわかる。一方久慈川までは距離があり、水運を利用する発想は、この流域ではなかったのかなとも感じる。街道抑えるのが役割だったのかな。腰郭に下りるすぐ北の土塁の上に源太郎稲荷があり結構な高さの土塁楽しい。その先に空堀がよく残っており高低差がある。単郭とのことだが寺の境内合わせるとかなり広い。数千単位で兵が収容できたのではないか。南北朝期ではそんな人数が集まるとも思えず、戦国期にも利用されてたかも知れない。妄想は捗る。周りの北関東感溢れる景色もあって、楽しいお城でした。