平安時代の歴史が息づく、長谷部尾張守信連の真実。
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| 名前 |
長谷部館跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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日野町教育委員会設置の案内板によると、長谷部尾張守信連(従六位下・左兵衛尉)は平安時代末期、後白河法王の第三皇子である高倉宮以仁王に仕えていた。治承4(1180)年、平家打倒の企てが漏れた際に、王捕縛の兵と戦い、信連一人が王宮に残り捕えられた。その果敢さから平清盛により死一等を減じられ、同年秋にここ金持の地に配流となった。壽永3(1184)年、平家滅亡により赦免され、鎌倉に召されるまで下榎・土居といった当地の開発のほか、延暦寺・厳島神社の再興などにも尽くしている。文治2(1186)年4月検非違使に、6月御家人に加えられ、能登六郡の地頭に任ぜられる。のち建保6(1216)年に72歳で没するまで能登国珠洲郡大屋荘に住み、代々長氏を名乗った。下榎の現在の長谷部家の当主は信連より数えて三十一代目にあたる。昭和60年には長谷部信連顕彰会によって八百年祭が行われたとある。なお説明板の隣にある石碑は長谷部氏の功績を記した彰徳碑で、明治二十九年二月の銘がある。ほかにも屋敷や土居の位置関係を記す説明板が別途置かれる。