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(2年前のレビューを編集いたしました!)この地に嘗て存在した灊央(せんおう)大法學校は、明治年間に開かれていた私立学校である。校長を務めた岡三慶(1836~1916)は昌平坂学問所でも教鞭を執った著名な儒学者であり、活動拠点の東京から地元大森村(勝浦市)に近いここ長志村の実業家丸方に招聘されて教壇に立った。岡は幕末の儒学者森田節斎の門下であり、漢籍の教科書、辞典、政治社会思想の著作など50冊以上の書籍を出版した教養豊かな人物であった。授業内容は漢文、英語、数学を中心に行われ、英語担当には諏訪藩士中川久萬、数学教員には木島由四郎、当校卒業生の平野勝三郎などが居た。学校の施設は間口12間・奥行3間半と現代の一般的な教室よりも少し大きい程度で、丸が以前同地で運営していた旅館が教室として用いられた。最盛期には140人もの生徒が在籍していた。通学生の中には遠方(御宿村や西畑村、総野村)から通う子どもたちも多く、当時は朝3時起きで通学していた者もいるという。創設者の丸も夷隅郡の自由民権運動を率いた以文会の結成に関わるなど、地域住民の教育に対する熱意と意欲の高さが伺える。学校は中等教育程度とあり期間は3年間であるが、法学の研究課程は1年間であった。なお、県立大多喜高校の開設など近隣の公立校の充実により1900年には閉校となったが、地元の教育史においては貴重な存在であった。現在は学校跡の痕跡はなく、同地に卒業証書が刻印された碑文がOB等により設置されている。「立身報国」を生徒の心得としたように、卒業生には県会議員や教育者となり地域に貢献した。明治年間の東村の人口は4000~5000人と、現在よりも多かった。当時この地域には長志尋常小学校、東尋常小学校(校内に東実業補習学校併設)、高田尋常小学校があり、各学校に90人程度の生徒が在籍していた。また、私立学校には新田野八幡神社付近の集義学校があった。明治以前の私塾についての記録は残っていないが、殆どの学校が寺の敷地内に設置されていることなどから寺子屋教育が中心であったと考えられる。