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京急蒲田駅西口すぐ、現在の妙安寺・蒲田八幡神社周辺に比定される戦国期の在地武士・斎藤政賢(さいとう・まさたか/まさかた)の屋敷跡です。現在、土塁・堀・曲輪・井戸・石積など城館と確認できる地上遺構は残っておらず、城址碑や「斎藤氏館跡」専用の公的説明板も確認できません。したがってGoogleマップのピン位置を「館の中心」「主郭跡」と見る根拠はありません。この館の存在を伝える最も重要な史料が、江戸幕府編纂の地誌『新編武蔵風土記稿』新宿村「妙安寺」の項です。同書によれば、永禄年間(1558~1570頃)、当地の地頭だった行方修理亮義安が戦死した後、その妻・円光院妙安尼が、兄である斎藤政賢の屋敷内に庵室を結んだとされ、「此即この地なり」と現在の妙安寺の場所に結び付けています。妙安尼は池上本門寺第12世・仏寿院日現に帰依し、天正17年(1589)に没した後、その庵室を寺院として整えたものが現在の日蓮宗・行方山妙安寺です。寺の山号「行方山」は夫・行方氏、寺号「妙安寺」は妙安尼の法名に由来します。ここで注意したいのが、「永禄年間築城・斎藤政賢築城」と紹介する城郭サイトもあることです。史料から確実に言えるのは、妙安尼が庵を結んだ時点で斎藤政賢の屋敷がここに存在したと伝えられることまでで、築造年を永禄年間に限定できる直接史料は確認できません。したがって「永禄年間築城」と断定するより、少なくとも16世紀後半には存在したと伝わる在地豪族の居館とするのが慎重です。廃絶年代も不明です。館域も確定していません。『新編武蔵風土記稿』が直接示すのは斎藤政賢の屋敷内に妙安寺の前身となる庵が営まれたことですが、『日本城郭大系』第5巻「埼玉・東京」を典拠とする城郭研究では、現在の妙安寺だけでなく、その西隣の蒲田八幡神社付近まで屋敷地だった可能性が紹介されています。ただし発掘によって堀や土塁の線が確定したわけではなく、館の正確な東西南北の範囲・縄張り・虎口位置等は不明です。Googleマップの位置情報にも注意が必要です。画面では「蒲田4丁目18-1」と表示されることがありますが、史料上の核心となる妙安寺は蒲田4丁目18-15、西隣の蒲田八幡神社は4丁目18-18です。現在「斎藤氏館跡」として登録されている地点情報も4丁目18-18を示すデータがあり、ピンはあくまで館跡周辺を示す目印と見るのが妥当です。「4丁目18-1そのものが館の本丸跡」という理解は避けた方がよいでしょう。斎藤政賢本人について確実に分かることは多くありません。明治43年(1910)の『東京近郊名所図会』には「旧家斎藤氏」の項があり、当地斎藤氏を「可満多丸」に始まる蒲田氏系譜と結び、蒲田左近太夫政祐の子が斎藤別当実盛の外孫として一時斎藤氏を称したという伝承、さらに二十六代後に武兵衛政賢が当地に住み、その妹が地頭・行方義安に嫁いだとする系譜を載せています。しかし同資料自身が、この由緒は斎藤氏側の系図には見えないと記しており、源平合戦で知られる斎藤実盛から政賢までの系譜は伝承として扱うべきものです。一方、政賢の妹・妙安尼については物証が残ります。妙安寺には妙安尼供養塔があり、大田区指定有形文化財。現存塔は高さ124cmの宝篋印塔で、台石銘から寛永20年(1643)の造立と考えられています。妙安尼の没年1589年から54年後の造立ですので、妙安尼存命中の墓塔そのものではありませんが、斎藤政賢の屋敷→妙安尼の庵→妙安寺という伝承を現在の場所に結びつける極めて重要な文化財です。大田区の文化財一覧では昭和49年(1974)2月2日指定、所在地は蒲田4丁目18-15と確認できます。なお『新編武蔵風土記稿』が記した妙安尼の墓は「五輪の石塔」で、「円光院殿妙安日行大姉」「天正十七年十月三十日」の銘があったとされる一方、現在文化財指定されているのは1643年造立とみられる宝篋印塔です。近世地誌に記された墓塔と現指定塔の形式・年代が一致しない点も、古い紹介文を読む際には注意したいところです。また、ここだけを見るより、北へ約1km弱の行方氏館跡(現在の圓頓寺周辺)と合わせると蒲田の戦国史がかなり立体的になります。行方氏はもと上杉方、のち後北条氏に属したとされ、永禄期には八幡塚・高畑・吉川・町屋・道塚・雑色の六郷と大師河原を合わせ361貫24文を領したという記録が残ります。妙安尼の夫・義安もこの行方氏であり、斎藤家と行方家は婚姻によって結ばれていました。現在の京急蒲田周辺に、後北条氏支配下の在地武士の居館が複数存在したことを考える手掛かりになります。現地では「城らしいもの」を探しても見つかりません。都市化により館の構造は完全に読めなくなっています。むしろ見るべきなのは、妙安寺そのものと妙安尼供養塔、そして隣接する蒲田八幡神社との位置関係です。京急蒲田駅西口から1~3分程度。城郭としての遺構も縄張図も残らず、斎藤政賢自身の事績もほとんど分からない。それでも、この場所には「兄の屋敷に夫を失った妹が庵を結ぶ」という16世紀の記憶が近世地誌に記録され、その庵が妙安寺として現在まで続き、妙安尼の供養塔まで残っています。斎藤氏館跡の価値は、城郭遺構ではなく、寺院・墓塔・地誌を組み合わせることで初めて復元できる戦国期蒲田の在地領主社会にあります。【参考資料】最重要資料は『新編武蔵風土記稿』荏原郡新宿村「妙安寺」です。斎藤政賢の「屋敷内」に妙安尼が庵を結んだという、館跡比定の根拠そのものです。東京都公文書館『東京市史稿』でも妙安寺草創の記事が『新編武蔵風土記稿』『東京近郊名所図会』等を典拠として整理されています。東陽堂『東京近郊名所図会』南郊の部、1910~1911年。妙安寺に続いて「旧家斎藤氏」の項を置き、政賢一族の系譜伝承をかなり詳しく記録しています。ただし系図自体への留保もあり、史実と伝承を区別して読む必要があります。法政大学江戸東京研究センターが原本画像を公開しています。平井聖ほか編修『日本城郭大系 第5巻 埼玉・東京』新人物往来社、1979年、361頁。東京の中世城館を調べる基本文献で、斎藤氏館を城館史の側から追う際の主要資料です。国立国会図書館デジタルコレクションにデジタル化資料があります。大田区教育委員会「大田区指定文化財一覧」。妙安尼供養塔が昭和49年2月2日指定の区指定有形文化財(金石文)、所在地「蒲田4-18-15 妙安寺」であることを確認できます。なお、斎藤氏館跡そのものはこの指定文化財一覧には掲載されていません。大田区教育委員会編『大田区遺跡地図』2009年も、蒲田周辺の埋蔵文化財をさらに精査する際の基本資料です。東京都立中央図書館等に所蔵があります。