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書にて「愛發橋」についてしらべてみます奈良時代673年から789年の時に、律令国家の防衛や交通監視のために、この辺りにおかれたといわれる「愛發(あいち)関」という関所がありました。この関と「不破関(ふわのせき)」、三重県の「鈴鹿関(すずかのせき)」、これら「三関(さんげん)」は、当時の都の平城京を守るための「最終防衛ライン」であったといいます。「愛發橋」のこの辺りに「愛發関」があったと思われます。___________❶【参考 敦賀郡誌 1985年】愛發(あたご)関址「二中歴(にちゅうれき)」の書には、「愛発(あいち)関」は越前国敦賀郡にあると記されていますが、今となってはその正確な跡地は詳しくわかっていません。愛発(あいち)の山道にあったとされる場所です。「愛発(あいち)山」という名も、今では伝わっていないませんが、山中の村人の話によれば、「愛発(あいち)山」とは近江国高島郡の国境村から、山中・駄口の間を流れる五位川までの、「一里(約4km)」に満たない範囲の山々のことを指すといいます。「疋田記(ひきだき)」には「あらちの高根(高い嶺)」の名が見え、寛文5年(1665年)に「あらち山の北、五位川にいたるまでの左右の山を駄口村の領地とした」という記録があることより、享保年間(1716年~1736年)ごろまでは、その名が残っていたと思われます。具体的には、岩籠山(いわごやま)の南に連なる高い嶺のことで、山中・駄口の両集落から見て西側に位置しています。また、岩籠山・鷹岳・愛発山を合わせて「疋田八郷(ひきだはちごう)の三大山」と呼んでいました。その山の麓(ふもと)が、いわゆる「愛発の山路」ということになります。近江の海津(かいづ)の北に「小荒路(こあらじ)」という村がありますが、これは「愛発(あらち)への入り口」という意味とおもわれます。この道は、のちに「七里半越(しちりはんごえ)」と呼ばれるようになりました。〇「続日本書紀」天平宝字8年(764年)9月 (「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」)藤原仲麻呂(なかまろ)が反乱を起こした際、息子の辛加知(しかち)が越前守(えちぜんのかみ)を務めていたため、仲麻呂は越前(現在の福井県)へ逃げ込もうとしました。その時の状況は、次のように記されています。「官軍は精鋭の兵士数十人を派遣して、越前への入り口である愛発関(あらちのせき)を封鎖しました。授刀(たちはき)の物部広成(ひろなり)らがそこで待ち構えて仲麻呂の軍を拒み、追い返したのです。仲麻呂は進むことも退くこともできなくなり、やむなく船に乗って浅井郡の塩津(しおつ)を目指しました。ところが、突然の逆風に襲われて船が沈没しそうになったため、再び山道を通って愛発へと向かいました。しかし、そこでも官軍の伊多智(いたち)らが立ちはだかって防戦したのです。」とあります。〇「乗燭譚(じょうしょくだん)」(宝暦13年(1763年)刊行)に「昔、北国(北陸方面)へ行くには、近江国の西部(現在の滋賀県琵琶湖西岸)から北に向かって進み、荒乳山(あらちやま)の方を通るルートをとっていました。そのため、この場所には関所が置かれており、今(江戸時代当時)でもその跡が残っていると言われています。」とあります。__________