橋本氏の居城、歴史の息吹を!
| 名前 |
坂本城跡 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/2179.html |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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橋本氏の居城山名時熙が明徳の乱の後に但馬国を拝領した際、因幡国邑美郡橋本蔵人正長の三男、橋本正悳が但馬国養父郡坂本に居城を定める。一説には山名持豊(宗全)とともに橋本正悳が応仁合戦に呼ばれたともいわれているが、その場合、居城は応永年間(1394年~1428年)であると考えられ、約150年この地を収めている。また、一説には永禄6年(1563)武田高信合戦(湯所口の戦い)にて因幡橋本氏は落城し橋本将監正恒が但馬山名氏に仕え、息子の橋本兵庫助宗継(享禄元年(1528)~天正5年(1577))が坂本城を継いでいるとの説もあり。家紋は日下部横木瓜紋。天正5年10月(1577)、小田野の合戦にて羽柴長秀(秀長)に破れ橋本兵庫助宗継は自刃、兵庫助の弟である橋本伊賀守通一、息子の橋本二郎兵衛長信、橋本嘉右衞門宗順は織田信長公に仕え鳥取城攻めに参加している。三男の橋本六郎右衛門宗信(教順)は坂本の浄念寺にて仏門に下り、以降明治期まで代々住職を務める。橋本氏の家臣と郎党で橋本姓を名乗っている者は帰農し羽柴秀長の命にて養父郡軽部郷へ所替えしている。尚、自刃した橋本兵庫助宗継の供養塔が養父市坂本の浄念寺と養父市浅野の産霊神社に存在し今でも祀られているという。また、一説として中島氏がこの地の領主という説がある。山城国中島を居城とし三好長慶氏に仕えていたが、永禄12年(1569)の本圀寺の戦いで織田信長勢に敗れて三好勢が阿波へ退いた際に居城を追われ、中島安継とその郎党は但馬の山名氏に召し抱えられる。山名氏は織田勢が播磨から円山川を下ってくることを想定し、橋本氏の食客として大江堀城と上小田東岸に小城を築くとある。羽柴長秀は小田野の合戦では2000騎余、対する但馬勢は橋本兵庫・佐々木近江守が200騎余、朝倉大炊・宿南輝直・三方左馬之助・大坪亦四郎・赤木丹後守の連合で500騎余が出陣したとある。中島安継と重臣は橋本氏郎党と共に養父郡軽部郷に移り帰農しているが、中島氏郎党はこの地に残ることが許されて、橋本氏郎党の農地を引き継ぎ帰農している。これは中島氏郎党はこの地に来て年が浅く、近郊国人との結びつきが薄い故に一揆など反抗勢力として参加する可能性が低いと考えられたと思われる。小田野合戦でも羽柴方に早々に寝返った佐々木氏以外の武将郎党は軒並み移封所替を受けている。