三澤局信仰の和合稲荷。
最上位 和合稲荷の特徴
深川浄心寺に位置する最上位和合稲荷で、地域の信仰の場です。
三澤局が篤く信仰していた、お稲荷様が祀られています。
境内の案内板からもその歴史が伺え、訪れる価値があります。
最上位和合稲荷【境内の案内板によれば】和合稲荷は浄心寺開基である三澤局が篤く信仰されていたお稲荷様です。そもそも浄心寺の開創は万治元年(1658)、開山は通遠院日義上人、開基檀越(最初の檀家でありお寺の建立に尽力した方)が三澤局(御法名浄心院殿妙秀日求大姉)でした。三澤局は茶道、造園などで著名な小堀遠江守政一(小堀遠州)の室で寛永18年(1641)に遠州五男政貞を出産しました。同年、三代将軍徳川家光に嫡男・家綱(幼名・竹千代)が生まれたことから、春日局の推挙によって竹千代君の乳母として召し出されました。慶安3年(1650)に家綱公が将軍世子となると西の丸御殿に移り、翌4年に家綱公が四代将軍になると御年寄に昇進し、本丸御殿へと移り、御本丸の局ともお秀の方ともいわれていましたが、実家が幕臣三澤氏であったことから三澤局と称して現米50石、月俸10口を賜り、大奥で重きをなしたといわれています。また大奥入りに際しては、伊勢外宮の豊受大御神を奉祀して「和合稲荷」とし、毎朝夕にお題目を唱えて、大奥女中の意志和合を祈っていたといいます。そのため三澤局が明暦2年(1656)46歳にして逝去すると、新寺建立を遺命していた局のために「世話になった我が乳母のためならば」と家網公が境内約一万坪と二代将軍家忠公の姫君の住居・玄関・門とともに五百両を寄進されて万治元年(1658)に浄心寺が創建されました。その際に三澤局がお祀りしていた「和合稲荷」の御神体も境内に一字の堂を甦てて奉祀されたと伝えられています。との事です。
深川浄心寺の境内社です。元々、深川浄心寺は、徳川家綱の乳母である三澤局の生前の願いにより開基されたお寺です。また、乳母であった三澤局の遺志に感銘した徳川家綱がこの浄心寺の建立を許可するだけでなく、多額の寄進を浄心寺に行ったと云われております。この和合神社も、三澤局が大奥女中の意志和合を祈って毎朝夕にお題目を唱えていた豊受大明神を和合稲荷と呼んでいたのを、四代将軍 徳川家綱が浄心寺境内に和合稲荷として建立させたそうです。三澤局の家綱への献身ぶりは『大樹(家綱の幼名)十六歳の御としまで猶片時も御側をはなれ奉らす給仕奉公志給』と記録に残る程です。そうした献身ぶりが「最上位 和合稲荷」と刻まれた謂れでしょうか?
| 名前 |
最上位 和合稲荷 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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浄心寺境内にある最上位 和合稲荷です。和合と稲荷の狐がいます。浄心寺開基の三沢局が篤く信仰したお稲荷さまです。三沢局は三代将軍・徳川家光の嫡男で、のちの四代将軍徳川家綱の乳母を務めました。大奥に入る際、女中たちが心を合わせ穏やかに暮らせるよう願い、伊勢神宮外宮の豊受大明神(豊受大御神)**を祀って「和合稲荷」とし、毎朝夕に題目を唱えたと伝わります。三沢局の死後、その遺志を受けて家綱が1658年(万治元年)に浄心寺を建立した際、和合稲荷も境内に祀られました。大奥の「和合」への願いを今に伝える、浄心寺ゆかりの貴重な社です。