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| 名前 |
滝山城本丸南虎口跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
滝山城跡の本丸南虎口跡は、本丸の南側に設けられていた出入口の跡です。滝山城の本丸は上下二段の平場から構成され、下段には東側と南側の二か所に虎口が設けられていました。虎口とは、城郭における出入口のことですが、戦国時代の城では単なる通用口ではありません。敵が城内へ侵入する際に必ず通らなければならない場所として、土塁や堀、曲がりくねった通路などを組み合わせ、**侵入を食い止めるための防御施設**として造られていました。本丸南虎口も、そうした本丸を守るための重要な出入口の一つです。この南虎口を考えるうえで面白いのが、本丸東側の虎口との違いです。東側の虎口は、中の丸との間にある堀切を越え、引橋を渡って本丸へ入るルートに設けられています。さらに枡形状に通路を屈曲させるなど、敵を正面から本丸へ入れない非常に厳重な構造になっていました。一方、本丸南側にも別の虎口を設けることで、本丸への出入りを一方向に限定せず、城内のさまざまな方向から本丸へアクセスできる構造になっていたと考えられます。もちろん、虎口が複数あることは、そのまま「敵が複数方向から攻めてきても安全だった」という意味ではありません。むしろ、それぞれの進入路に応じて異なる防御施設を配置することで、本丸を多方面から守ることが重要でした。滝山城の本丸周辺には、土塁や堀切、曲輪などが複雑に組み合わされています。南虎口も単独で機能する施設ではなく、こうした周囲の地形と一体となって本丸を守っていました。ここで思い浮かべたいのが、永禄12年(1569年)の武田信玄による滝山城攻撃です。『甲陽軍鑑』には、武田勝頼らが滝山城へ激しく攻め寄せ、北条氏照が二の丸の門に上って指揮したという逸話が残されています。ただし、実際に武田軍が城内のどこまで侵入したのかについては、軍記物の記述だけでは確定できません。仮に武田軍が外側の防御線を突破して城の中心部へ迫ったとしても、その先には中の丸、そして本丸が待ち構えています。本丸へ入るためには、堀や土塁、虎口など、さらにいくつもの防御施設を突破しなければなりませんでした。南虎口も、そうした本丸を最後まで守るための防御システムの一部だったと考えることができます。現在は樹木に囲まれ、当時の門や建物そのものは残っていません。しかし、地形や土塁の形を意識して歩くと、ここが単なる「本丸への入口」ではなく、敵の侵入を制限し、城兵が迎え撃つための重要な場所だったことが見えてきます。本丸南虎口跡では、ぜひ東側の虎口との位置関係にも注目してみてください。「なぜ本丸には二つの虎口が必要だったのか?」その答えを周囲の地形から考えてみると、滝山城が単純に堀や土塁を並べた城ではなく、地形と複数の進入路を巧みに利用して本丸を守っていたことが分かります。東側の枡形虎口と南側の虎口。この二つを合わせて見ることで、滝山城本丸の多方向からの侵入を想定した巧妙な防御設計が、よりはっきりと見えてきます。