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書にて「幸神屋敷跡」をしらべてみます調べた限りですと2つの説があるようです。◆【館跡の主は「平山左衛門尉綱景」の話し】[時代] 永禄年間(1558〜1570年)前後[検証]・大久野神明社の棟札に永禄2年(1559年)に大檀那として拝殿を造進した記録が残っています。・永禄6年・7年(1563・1564年)に西福寺にて神楽を執行した確実な記録があります。[どんな人]小田原北条氏照の家臣として、西多摩から甲斐武田氏の侵攻に備えた。天正18年(1590年)の八王子城の戦いで討ち死にした。以上の事から、彼が戦国期にこの地域を実質支配していたことは歴史的事実であることがわかります。◆【館跡の主は 幸神氏 という説の話し】「幸神社」の周辺エリアを古くから治めていた独自の土豪「幸神氏」の居館であったという説があるようです。◆【この屋敷ぬしを 考えてみる の話し】すぐ近くの「幸神社」の話となります。【皇国地誌】によるとその創建は建武2年(1335年)と南北朝時代の初めのころとなります。そして、奥埜村(大久野村の古い呼び名)の地主神(土地そのものを守る元祖の神)である。と記載されています。まず「奥埜村」とは鎌倉時代から室町時代に呼ばれたこの地の名前です。そこの「地主神」とあります。地主神とは、「その土地を最初に切り拓き、支配した一車が祀る元祖の神様のこと」をいいます。『新編武蔵風土記稿』に記された屋敷跡の規模が、中世武士の館の標準規格である「一町四方」であることも、この時代から館が存在した証拠です。つまり、平山氏が戦国時代(永禄年間)にこの村にやってきたときには、すでに220年の歴史を持つ先住の土豪一族と、その地主神(幸神社)がそこに堂々と存在していたということになります。(※後から来た平山氏の本拠地である日野にも、奇しくも同じ「幸神」の地名があり、運命的な繋がりを感じて館を接収・改造したのかもしれません)その先住の土豪一族として【日本城郭大系】では土豪「幸神氏」では!と推測されています。_________「平山氏」の居跡ではないかとあります。❶【参考 武蔵野歴史地理 1972年】幸福神社の西北には「御殿跡」と称する場所がある。これは「平山氏」の居跡だろうなどといっている。_________一説に平山左衛門尉綱景(つなかげ)の館跡ではないかとあります。❷【参考 武蔵名勝図会 大正15年】御殿跡同村(大久野村)の内にあり、幸神社の西北の方角に位置している。現在は民家の敷地となっている。昔、そのひとりの身分の高い武士の名を称えて、このように「御殿」と名付けたのであろう。誰の居住していた跡であるかということについては、中世の頃のことで、すでに伝承が薄れてしまったともいわれる。しかしながら一説には大昔、この村に平山左衛門尉綱景(つなかげ)という人が住んでいたという伝承がある。したがって、ここは平山氏が永禄年間(1558〜1570年、戦国時代後期)の前後において拠点としていた居館の地なのであろうか。詳細は不明である。__________不明であるとあります。❸【参考 新編武蔵風土記稿 1830年】屋敷跡屋敷跡(やしきあと)小字の幸神(さちかみ)にある。一町四方(約109メートル四方)の広さの土地のことをこのように呼んでいる。その屋敷が建てられた由来や歴史についての詳しいことは分かっていない。_________土豪「幸神氏」居館であるという可能性を提示しています。❹【参考 日本城郭大系 1979年】顕著な遺構は現存しないが、台地を北から円状に巡って西へ向かう自然谷があり、これが水堀の役割を充分果たしていたと考えられる。いわば自然地形を充分に利用した館であり、北方背面を掘り割ると小規模ながら優れた城郭を構成する。館主を平山綱景とする説はもちろん確証がなく、また、土豪幸神氏居館であるという可能性も完全に否定するだけの証明はなされていない。