歴史息づく穴場、天児屋命の地。
玉取神社の特徴
御祭神である天児屋命をお祀りしている神社です。
創立は天長二年、歴史ある神社の一つです。
小さいながらもきちんと管理されている穴場です。
御祭神 天児屋命由来創立は天長二年(825)父民部介藤原信綱が所領していたこの地を開いて藤原綱義(大栄師)が建立しました。玉取神社本殿に祀られている祭神は、天児屋命を祭り鎮守としました。その故は祖先の鎌足公が房崎の浦で竜宮から玉を取り得て日本の宝としたので、鎌足を玉取明神として尊崇したという伝説によって、玉取明神は大栄師の祖先に当たるので勧請したのです。天長三年(826)秋妻に悪病が流行して、数多くの人が死んだので、大栄師は大いに悲しみ、これを救うべく玉取の神前において三日三夜連続の苦行を行い悪病を払いました。それより、大栄師は根本院・薬師・地蔵・観音の四院と玉取・稲荷明神の三社を立て、豊作を祈り、世人を導いて、ますます仏堂興隆につとめました。神社の所管は江戸時代から齋藤家が宮司として奉職し明治五年(1872)に村社に列せられました。ふるさとの守護神として人々の幸せと社会の繁栄・発展を願うご神徳高い玉取さまです。(境内記念碑より)参考として「補陀洛山志度寺の海女の墓」その昔、唐に嫁いだ藤原鎌足の息女白光は亡き父の供養物として数々の宝物を兄の藤原不比等に届けようとしました。ところが、宝物を積んだ船が志度の浦にさしかかったとたん嵐が起こり、中国に二つとなき宝物「面向不背の玉」が龍神に奪われてしまったのです。不比等はこの玉を取り戻そうと、身分を隠して志度の浦へやってきました。ここで漁師の娘であった海女と恋に落ちたのです。「房前」という男の子も授かり親子三人で幸せに暮らしていました。しかし、不比等が志度の浦に来た理由を知った海女は、愛する夫のために玉を取り戻そうと死を覚悟で竜宮へ潜っていったのです。海上で待つことしばし。海女の合図で命綱をたぐった不比等の前に現れたのは、見るも無惨な海女の姿でした。海女は間もなく、不比等に抱かれたまま果ててしまいました。しかし、玉は海女の命に代えて縦横に切った乳房の中に隠されていたのです。その後、玉は奈良の興福寺に納められました。藤原家を継ぎ大臣にまで出世した房前は、やがて志度寺を訪れ千基の石塔を建立、小堂を大きな堂塔に建て替え、さらに法華八講を修めて、亡き母の菩提を弔ったということです。この「玉取り」にちなんで志度の浦は玉浦と呼ばれています。(四国さぬき市観光ガイドより)天児屋命は、古事記では「天児屋命」、日本書紀では「天児屋根命」と表記されています。群馬県と栃木県の県境付近にある神社は平成十七年(2005)に新築されました。狛犬さんは平成十二年のものです。参道横には文政六年(1823)の水盤があります。境内左側には境内社の「稲荷神社」があります。境内右側には嘉永二年(1849)に造られた富士塚があります。石段脇には石尊大権現碑がありました。神社にお伺いして最初に「おっ」と思うのが、鳥居前の大きな玉です。「龍神から奪い返した玉」の象徴物と捉えてしまうかも知れませんが、「船が来たらボカーってなるやつ、日本軍の機雷、もらってきたんだ。」とのことでした。(^▽^ ; )また、神社から直線で南西に600mの田んぼの区域に、B29爆撃機「Slicks Chicks号」と「Deaner Boy号」の墜落地点があり、現地に小さな案内板が立っています。秋葉集落は幸いにも人家とも無事だったと書かれています。
小さいながらきちんと管理されていました♪
名前 |
玉取神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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穴場デスねぇ〜