逆さ藤の伝説を感じる神社。
藤田神社の特徴
黄葉と銀杏が共に楽しめる、季節感溢れる神社です。
高さがあり広々とした境内で、落ち着いた散策が可能です。
神殿屋根の銅板葺きが印象的な、美しい風景を堪能できます。
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普通のローカルな神社、黄葉に混じって銀杏が落ちていました。
桜の花が綺麗に咲いていました高さが有り広々とした神社。
神殿屋根の銅板葺きが印象的。
名前 |
藤田神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.3 |
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資料によると、当社が初めに鎮座していた所は、藤の木と呼ばれる地で、そこには坂上田村麻呂が東夷平定の際、当社に武運を祈り、持っていた藤の鞭を「わが軍に利あらば繁茂せよ」と誓って地面に逆さに突き刺したといわれる逆さ藤の伝説が語られている(奈良時代末期から平安時代初め)。また、現在地、つまり飯玉神社の境内地に遷座したのは、明治四十一年のことで、飯玉神社は、この折、当社の末社となっている。創建は『風土記稿』によると「藤田社 藤田郷寄居村の聖天を勧請せしものゆへ、この社号ありと云、されど寄居村の正龍寺の旧記に、康邦夫婦及び先祖正行の三霊を神に祀り、用土城西北の原野中、藤樹の下に三社を建立し、藤田大明神と唱ふと、是当社のことなるべし」と記している。これにある聖天というのは、藤田郷十二か村の鎮守である聖天宮のことで、永享六年(1434)の「前長門守藤田宗貞寄進状」(相用文書)によると、北武蔵の名族藤田氏に厚く崇敬されていたことがわかる。(補足:寄居町大字藤田にある宗像神社が明治の神仏分離以前は、武蔵国榛沢郡藤田郷(寄居町)の総鎮守聖天宮(通称藤田の聖天さま)として、崇拝されていました。)当地は、この藤田氏所領にあったため、同氏ゆかりの者が聖天宮の神と藤田氏一門の霊を祀ったものであろう。ちなみに、ここに載る康邦は、天文年間(1532-55)、北条氏康の三男氏邦を養子に迎え、北条氏に服属した藤田重利である。とあります。境内は広く奥行きもあり、参道を行くと社殿左手前に見えてくるのが、境内社の飯玉社らしいです。また、社殿右側にある合祀社殿の更に右奥に境内社の諏訪神社があり、その脇に境内裏参道があり、裏手の鳥居につながって道路へつながっていました。藤田氏の鎮守と言うことで、藤田氏の歴史:小野篁の子孫を称する武蔵七党猪俣党の猪俣政行(1155年に花園城を築いとたいわれる)が武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県寄居町)に拠って藤田を称し、1590年豊臣秀吉による小田原征伐まで武蔵国北部の有力国衆として400年余り栄えた。が見えてくるわけですが、現在地が明治四十一年に現・藤田神社が遷座されるまでは飯玉神社であったことなど、この地を巡る戦国時代以降も含めた領地争いの影が見えて来るようです。