行基の彫刻、歴史の深淵。
数馬区岩谷観音堂やぐら群の特徴
一周15分の探索が楽しめる、ワクワクする体験です。
行基上人が作った岩を彫り抜いた観音堂が見どころです。
懐中電灯必須の不思議で面白い空間が広がっています。
訪問客が少なそうな穴場スポット。窟の壁面に掘られた多数の仏が圧巻です。また、崖下の岩をくり抜いて地元の人がガレージに利用しているようです。
車で訪問。湊の交差点を曲がり93号線沿いにあります。駐車場も真下にあり、訪問しやすいです。駐車場から短いですがかなり急坂を上ります。訪問時には誰もおらず、時が止まっている雰囲気に浸れました。手掘りの後も生々しい洞窟に掘られた仏像からは、信心深くない私でも何か感じるものがあました。洞内は手すり等設置されていますが、かなり狭く滑りやすいこともあり、必ずスニーカー等で訪れるべきです。でないとせっかくの遺構が楽しめません。
今のうちに見ておいた方がいい場所です。砂岩の為風化が進みこの先100年もつかどうか、といった感じです。恐らく保存はせず、このまま風雨に晒され消えて行きそうです。ある意味諸行無常でしょうか。多層構造で階段で上部へ行けます。階段は狭く急なのでスニーカーがおすすめです。地域の方がお堂の整備等をしてくれているようです。マナーを守って参拝しましょう。所々に黒カビがありましたので免疫力が弱っている方は注意が必要です。
奈良時代の「行基」の作と伝わっている。行基は かなりの歴史的人物ですよね! 本当ならスゴい事だと思います。行基は 当時の朝廷から弾圧を受けながらも、民衆の大きな支持を得て その力を結集した。その後 聖武天皇により、奈良の大仏造立の実質的な責任者として招聘され、東大寺の「四聖」の1人と言われる。行基は近畿を中心に活動し、開基した寺院は600と言われる。伝承だが関東でも 横浜の弘明寺等 沢山の寺院を開基している。公共事業にも多くの功績があり、大輪田泊(神戸港)他多数。関西では有名な大きな貯水池「昆陽池」「久米田池」「狭山池」は行基が掘削指導したらしい。岩谷観音堂に話を戻すと、たいへん面白いスポットだと思いましたが、磨崖仏が 長年の雨風で「お顔」が磨り減ってしまったように感じました。地元の保存活動の皆さんが 懐中電灯を置いて下さっており、気持ちの温かさを感じました。
以前から訪れてみたかった岩谷観音堂に行ってきました。国道465号線沿いにあるので直ぐに見つけられます。車は4〜5台は停められそうでした。窟の壁面に掘られた多数の磨崖仏が圧巻でした。ただし、窟を登り降りする際に階段のように作られた段に砂が堆積しており滑って危ないので要注意です。人気もないので、ちょっと不気味な感じがしましたが珍しいところなので行く価値があると思います。
岩谷堂奈良時代の高僧行基による一夜の作と言い伝えられている岩谷堂は、岩山に幾つもの石彫りにされています。洞が掘られ、その洞壁に数多くの仏像が浮き、古くは横穴式の古墳と思われますが鎌倉時代の「やぐら」形式の岩洞もあります。明治時代の石碑には、数馬村大悲山岩谷堂清厳寺と記され、本尊は十一面観世音菩薩のお寺です。線刻や浮き彫りの五輪塔、大黒様に不動様、庚申塔に弘法大師、縄文時代の石棒と番だけのお地蔵様など、永い間、村人の祈りや集いの場所にして在り続けた村の博物館です。【現地案内板より抜粋】駐車場あり。階段上がると、お堂の周りに複数の洞が見られます。堂の後ろ側を回れます。
千葉によくある、洞窟にお堂をくっつけて建てた観音様ですね…類似したものでは他所にも、斜光不動や高宕観音堂や崖観音堂や三石山観音など多数ヶ所にありますが、車道から直ぐアクセス出来て〜ほぼ混雑も無く静かに多数の洞窟を観覧できる、まさに穴場ですね!駐車場側には防空壕らしき横穴もありました。地元の保存活動の方が置いた懐中ライトを借りて内部を安全に観る事ができて、説明書きも置いてありました。
一周15分程度でワクワクできて楽しい!
岩谷観音堂のやぐらは古墳時代の横穴を再利用して作られ、窟の壁面は中世から江戸時代までに彫られた、または奈良時代の僧行基が一晩で作ったとも言われています。やぐらとは横穴式の納骨窟または供養堂のことです。やぐらは鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて鎌倉を中心に造られ、鎌倉では3000基以上が確認されています。江戸時代に鎌倉の方言としてやぐらという名称が紹介されていますが、当時は「巌(いわや)」と呼ばれていたようです。〜鎌倉のやぐらの成り立ち〜鎌倉のやぐらは穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で築かれました。やぐらは芸人、芸術家、僧のために法事をする場所、供養する対象として納骨する場所で墓とは違ったと考えられています。鎌倉公方の衰退により多くの武士が領地へ移り、鎌倉の都市としての役割が縮小すると作られなくなり、その役割は消えていきました。なお、先祖代々の墓は「家」の概念が浸透した江戸時代からです。中世の庶民は墓参するという考えはなく、墓を持ったのは天皇だけでした。鎌倉時代まで人が死ぬと庶民は火葬も土葬もせず町の外に運びそのまま土の上に置く風葬をするか、小さな塚を築き、目印としての枕石や生木を植えた程度でした。それも「古き塚は鋤かれて田となりぬ」というように、時間の経過とともに腐朽し忘却されていきました。平安時代までは貴族の子、天皇の子の遺体も風葬されました。ちなみに、貞観13年(871)耕地化しつつある都の鴨川の下流を「百姓葬送の地、放牧之処」として耕地化禁止の命令が出されています。鎌倉では死体を埋葬ないし放棄するのは鎌倉の境界の外側であり、後の極楽寺や建長寺の場所が地獄谷と言われていたのはそのためです。鎌倉の地獄谷は刑場としても使用され、処刑された死体はそのまま放置されました。京の鴨川の河原に相当するのは鎌倉の由比ヶ浜で、多くの人骨が見つかっています。武士は地方に土着した天皇家の末裔、または京の下級官吏が関東に下った者達で、地方に降った後も中央と結びつくことによって、身分をより強固にしていました。平安時代末期には関東の多くの在地領主は都の貴族や平家などと結びつくために出仕し、京の文化に触れています。例えば元暦元年(1184)6月、鎌倉に来ていた頼朝の恩人である平頼盛が京に帰る際、頼朝が送別の酒宴を開きました。その場に臨席した者たちは上流貴族の平頼盛を和ませるだけの京風の教養を心得ていました。その京において、かつて貴族達は火葬も土葬も行なっていました。最高級貴族の藤原家は一族の墓所を持っていましたが、継続的な墓参はしていませんでした。貴族達は死者の供養を墓ではなく、寺院や仏堂で行なっており、今日思われているほど遺骨は重視されていませんでした。そうした中で、永承7年(1052)の末法元年、盛んに法華堂などが建立され、その後、皇族や貴族に広まっていきました。寺を建てられるような上流階級や将軍家、執権はその寺に葬られました。頼朝は大倉御所の北の山の中腹に持仏堂を持ち、そこが死後法華堂となりました。以上のように、やぐらは上流階級のためのものではなく、寺を作れない程度の階級のためのものだったといわれています。この当時、死後の功徳を求めて仏教の霊場に火葬骨を納骨するという風習も起こり、こうした霊場として最も有名なのが高野山で、北条政子や源実朝の骨も送られたといわれます。また、鎌倉時代中期頃から京ではお盆の墓参がされ始めました。鎌倉の地では将軍や執権らは供養する場所、法事を執り行う空間として寺を持てました。しかし、人口が激増した鎌倉時代中期以降、執権や連署でさえも鎌倉市街地に広大な屋敷地を確保できませんでした。公邸は鎌倉の市街地にあるものの、私邸は鎌倉を取り囲む山の外に持ち、そこに持仏堂を建てました。そこまではできない鎌倉の上流階級にも「納骨信仰」が伝わり、納骨してそこに「墓参」したいという風習が高まりました。そこでやぐらが造営されたと考えられています。鎌倉時代に入ると、現在でいう葬儀社、火葬場の役割をお寺が一任することが増え、律宗などが務めました。当時の仏教界は縦割りの現在とは異なり、他派の僧や寺院とも交流を持ち、他宗派の門主の葬儀も律宗系寺院が行なっていました。ちなみに、平安時代には沐浴、入棺、火葬、骨拾いなどはその家の者で行うのが通例で、「穢れ」「喪」に関わることは僧を含めて他人は行ないませんでした。また、今日のようにどの宗派も葬祭を行ない、寺に墓を持つようになったのは14世紀になってからです。平地の少ない鎌倉が大都市となり、郊外に屋敷を建てた上流階級の墓参供養への要求に葬送請負も業とする律宗集団が答え、柔らかい岩窟を掘ったものがやぐらです。鎌倉のやぐらは「寺院に伴うもの」が大半で、その中でも律宗系が650窟で71%を占めています。さらに、やぐらが最盛期を迎える時期と鎌倉への律宗の進出時期とほぼ一致するといわています。職人集団を率いた忍性が六浦の浄願寺に正嘉年中(1257~1259)に入ったとされ、ここから律宗が鎌倉で活動を開始したといわれています。非人救済で有名な忍性は塔婆20基建立、189所架橋、道71所修築、井戸は33所掘ったといわれます。つまり、石工を含んで主に土木系の工人集団を率い、今の大手建設会社のような役割を果たしていました。非人救済と葬儀会社、土木建設会社の役割は共通点があります。葬儀や埋葬は穢れに深く関わり、土木作業も下層民の動員力に依存します。これにより律宗は鎌倉時代後期に爆発的に勢力を獲得し、律宗僧に率いられて上方の石工大工集団が鎌倉の地にやってきて、鎌倉石を堀り、内壁を白い漆喰で塗り、五輪塔や板碑、宝篋印塔の墓銘に漆を塗り、金箔や金泥で文字を彩色すして、法事を執り行う場所、堂と見立てました。室町時代に入ると形状も簡略化され、やぐらの数は減少しました。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立で起きた永享10年(1438)の乱で持氏が自害し、鎌倉府は滅亡しました。これが関東における戦国時代の幕開けで、一時は鎌倉府は盛り返すも享徳3年(1454)の乱で室町幕府の命を受けた今川範忠が鎌倉を占拠し、本拠地は下総國古河に移りました。もはや「武士の都」ではなくなった鎌倉は、多くの寺院も衰退してほぼ農村と化し、やぐらは忘れさられていきました。その後は残されたやぐらは倉庫代わりに使われ、埋もれかかったものは土葬用に使用されたといいます。
| 名前 |
数馬区岩谷観音堂やぐら群 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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20年ほど前から、輪行で上総湊を利用する際にはそのついでで立ち寄り、久しぶりに訪ねましたが、あいも変わらず人は居ないし、コンパクトながらじっくり楽しめる場所です。地味に注目していただきたいのが本堂下の排水路と、本堂に向かって左手前方のくぼみの中の磨崖仏で、この磨崖仏には朱色と藍色でしょうか? 左肩口の袖のあたりに、彩色の跡が見て取れます。