豊臣秀吉の聚楽第跡、歴史のひととき。
聚楽第東濠址の特徴
聚楽第東濠址は、豊臣秀吉が建てた城郭風邸宅の跡地です。
新しい石碑には、豊臣秀吉の歴史が刻まれています。
静けさの中、旧跡に想いを馳せることができます。
今は、ここにあったという碑のみで、想いに耽ることもできない感じです。写真だけ撮ってすぐに退散しました。堀の跡とかもっとわかればいいのだけど。
東と西の濠(ほり)の位置を示す石碑があるのみ。趾と言う様に、ここには1587年頃、秀吉の建てた豪華絢爛な城郭があった。秀吉は太政大臣としてここで政務を行った。二条駅からは徒歩20分、バスは大宮中立売バス停からアクセス可。
住宅街の道の角にポツンと石碑が立っている。ナビがないと分からない。駐車場も無いので写真を撮っただけで、感慨にふけることもできなかった。
晴明神社からブラブラ歩いていたら偶然見つけた。少し西のところに手作りの説明書きがあった。聚楽第の跡形もないところが、逆に歴史を雄弁に語ってる気がする。
豊臣秀吉が1586年に翌年完成、京都に造った邸宅けん政庁としてつくっています。前年度に関白職を拝命した関係として御所近くにつくった城で聚楽第といいます。これは、794年の平安京の大内裏のあった場所につくっています。造りは本丸として堀をめぐらして、その周りには秀吉ね重臣の屋敷をかまえていました。黒田考高、上杉景勝、前田利家などの邸跡があり、石碑が立ってます。本丸は北は一条通、南は上長者町、東がは、大宮通、西は、裏門通の大きさになります。聚楽第の石碑は二箇所あり、本丸東堀跡中立売通大宮西北と西堀跡中立売裏門にあります。1586年秀次が高野山の柳の間で切腹しますので、翌年8月より破却されます。部材の多くは伏見城に移転されてます。町毎移転されたので、伏見区に今も聚楽町としてのこってます。また聚楽第の遺構として、大徳寺の唐門、北大路の紫野にあり、特定日のみ公開、西本願寺の飛雲閣、堀川七条にあり、これも特定日のみ公開、妙覚寺の表門、地下鉄烏丸線の鞍馬口駅より3分の場所にあります。また聚楽第にて使われていたと言う梅雨の井とする井戸跡なでがあります。大宮上長者町にあり、また松林寺も3メートルほどの坂になり、沈み込んでます。これが聚楽第の南彫り跡としています。智恵光院通出水にあります。また秀吉は町を整備もしています。当時京都の町は四角の町区割になっていて、回りに家が建っていて、真ん中は、空き地として畑などに使われていました。それの真ん中に2メートルぐらいの路をつくり、家のうらにも家がたつようなり、3万の人口かわ10万に飛躍的にふえています。その当時の路がかんの町通りとして残っている場所があります。五条高倉上がるにあります。入り口には、仏光寺があります。住所も間の町としてのこっています。また秀吉は、京都の街の周りにお土居をつくり、街の安全にも配慮しています。土を掘り直ぐ横にその土ん積み上げてつくられています。高さは8メートルほどありました。仏教大学の北側や天満宮にお土居をみることができます。鞍馬口はお土居の出口があった場所として名前がのこってます。
豊臣秀吉が京都に建てた城郭風邸宅。天正15年(1587)完成。翌年後陽成天皇の行幸を得る。のち秀次の居所となったが自刃後破却。大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣・浴室はその遺構とも伝えられる。
聚楽第跡を示す石碑ですが、石碑の側面には「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」と書かれています。ということは、この辺りは聚楽第の東の端ということですね。本丸跡には場所を示すものはないのでしょうか?他の方のクチコミには説明板があると書かれていましたが、私が行ったときには、ありませんでした。風で飛ばされてしまったのでしょうか? いずれにせよ、壮麗を極めたかつての大城郭を偲ぶものは何もありません。であるならば、佐々木酒造に行って、純米吟醸の「聚楽第」でも買って飲むとしようか(笑)!
先輩に連れられて訳もわからず来たところ。ユニクロの近く。
豊臣秀次の切腹と共にここは消滅。!豊臣家は大仏殿と言い、沢山の建築物作ったが?
名前 |
聚楽第東濠址 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka152.html |
評価 |
3.3 |
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上京区中立売通大宮通北東角に「聚楽第趾」があったことを示す石碑と説明書きがあります。向かい側がハローワーク西陣になるので分かり易い場所になります。中立売通側(南)に「聚楽第址」大宮通側(東)に「此付近大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれています。聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、関白となった豊臣秀吉が京都に置いた政庁兼邸宅である。これ以前は、妙顕寺城を拠点としていたが聚楽邸の完成により廃されている。天正14年(1586年)、平安時代の内裏跡地に築城を開始、翌年完成した。完成後は大阪城より移り住み、本拠としている。関白職を甥の豊臣秀次に譲った後は、聚楽邸は秀次の邸宅となった。その後、秀吉に嫡子秀頼の誕生により諸説理由はあるが秀次が切腹となり、主のいなくなった聚楽第は破却されています。完成から破却まで8年間であり不明な点が多い聚楽第ですが、建物の一部は、京都市内のお寺等に移築されていたりするので当時の感じをしることができます。ここから西に約300mのところにある正親小学校の前には「聚楽第本丸西濠跡」碑があります。