明るい雰囲気の飯岡参拝。
玉﨑神社の特徴
玉崎神社は飯岡町に位置し、深い歴史を感じる場所です。
境内には飯岡助五郎の碑があり、映画ファンにも嬉しいスポットです。
明るい雰囲気の中、幼稚園から聞こえる子供たちの声が賑やかです。
飯岡はバイクツーリングで良く行く所ですが、こちらは初訪問でした。格式のある立派な神社が道路沿いにあって、鳥居で一目で分かります。書き置きの御朱印が賽銭箱の横にあり、ペンもあるのでその端で日付が入れられます、お代は賽銭箱に入れるシステムです。
玉依毘賣命を主祭神、日本武尊を配祀神とし、下総國一之宮・香取神宮に次ぐ下総國二之宮に列格される神社で、第12代・景行天皇(BC13年?~130年?)の御代、弥生時代後期の景行天皇40(110)年に日本武尊は父でもある景行天皇より東国征討を命じられ、相模国(現・神奈川県)の浦賀水道(走水の海)から上総国(現・千葉県)への航行中に海が大荒れとなり、妃の弟橘媛が「これは海神の御心に違いない」と言いながら海中に入り、海神を鎮める事で無事に上総国に辿り着き、その後、葦浦(現・鴨川市吉浦)を経由して玉の浦(現・九十九里浜)に渡ることができました。そこで日本武尊は、その霊異を畏み、海上平安、夷賊鎮定のため、玉の浦の東端『玉ヶ﨑』に海神(大綿津見神)の娘であり初代・神武天皇(BC711~BC585年)の母でもある玉依毘賣命を祀って創建したのが始まりと伝えられます。中世(鎌倉時代+室町時代/1185~1573年)には、南南西方の龍王崎鳥居(龍王岬波止鳥居/玉﨑神社一の鳥居)が建立される龍王崎海岸の地に鎮座していましたが、積年の海蝕を避ける他、戦国(室町)時代の天文2(1533)年に兵火に見舞われたことで、現社地に遷座したと伝えられます。その後、社号を『三﨑庄横根郷玉ヶ﨑大明神』『玉の浦総社玉ヶ﨑大明神』とも号され、武将からの信仰篤く、平貞盛・源頼義・源義家・源頼朝・日野俊基・千葉常胤など名だたる武将が参拝、それぞれの祈願や報賽のために報幣や社殿の造営に深くかかわったとされ、江戸時代(1603~1868年)に入ると武将はもとより、平田篤胤・平田鐵胤・斉藤彦麿・高田与清・大国隆正などの名だたる文人墨客も参拝しています。戦国(室町)時代の永禄年間(1558~1570年)においては、上総國一之宮・玉前神社が戦火を避けて当社へ御神体を臨時遷宮したとも伝えられ、明治時代(1868~1912年)初期に社号を『玉崎神社』へ改号、明治維新後の近代社格制度において郷社に列格、明治39(1906)年12月25日に千葉県より神饌幣帛料供進社(地方公共団体から神饌幣帛料の供進を受けていた神社)に指定されました。建築様式が一間社流造りで見事な彫刻が施される玉﨑神社本殿は、縁外側の手すりを支える柱に付けられた擬宝珠の銘文から江戸時代中期の元禄10(1697)年に九十九里漁業の繁栄を背景として造営されたことが窺え、『玉崎神社本殿』として千葉県の有形文化財(建造物)に指定されます。向拝回りを彫刻で飾り、正面に一間の向拝と千鳥破風を設け、江戸時代の特色が窺える玉﨑神社拝殿は、江戸時代後期の天保年間(1831~1845年)の造営と伝えられ、嘉永5(1852)年に再建、昭和3(1928)年に改修され、『玉崎神社拝殿 附 棟札2枚 奉加帳2冊』として千葉県の有形文化財(建造物)に指定されます。外部四隅の柱上部にある阿吽の唐獅子や向拝正面の親子龍、向拝柱上部の飛龍の籠彫りを代表とする一連の雄渾な彫刻は、当社棟札から、江戸時代末期に当地が生んだ名工・石田丹治栄貞(1798~1872年)と岡佐内耕浚の力作で、拝殿内の扁額が第8代江戸幕府将軍・徳川吉宗(1684~1751年)の筆と伝えられます。本殿内神輿の左右に据え置かれる雌雄1対(雄像:高さ33cm、雌像:高さ33.5cm)の陶製の狛犬は、『古瀬戸狛犬』として千葉県の有形文化財(工芸品)に指定され、2躯とも下顎下に飾帯のような衿(襟)毛が見られることから、室町時代(1336~1573年)の製作と考えられます。境内には他にも旭市の史跡に指定される『玉﨑神社の石塁(81m)』、旭市の天然記念物に指定される『天の石笛 附 霊石(子宝石)35個 附 石笛8』や平田篤胤歌碑』『昭和天皇御製碑』『竹久夢二文学碑』『飯岡助五郎碑』などの文化財も奉納されます。境内に整備された駐車場あります。
静かな雰囲気のなにか落ち着く神社でした😊御朱印は賽銭箱の横に書き置きがあります💦300円。
下総國二之宮という玉﨑神社は、上総國一之宮玉前神社とこの金の龍がお繋ぎになっているのでしょうか?本殿には立派な千木本殿裏には房総特有の凝灰質砂岩の石垣が美しいその更に裏には昔より守っている木々の根が力強く美しい。
6月の土曜日に参拝しましたが、他に参拝者もいなく静かにお参りできました。御朱印は頂けますが、拝殿前にボックスがあり、お賽銭として納めます。本殿の後ろには石塁も残されていて風土の歴史を感じられます。参道には 金の龍「玉崎の龍姫」様が目を引きますね。
社務所が通年閉鎖しているので、御守りや絵馬は併設されている右手の幼稚園で対応してくれます。
旭市の神社散歩で参拝させて頂きました。車で訪れたので、境内のすぐ近くに駐車場があり安心しました。拝殿・本殿ともに大きく、各所に施された彫刻が見事でした。平日の午後に訪れたので、境内から繋がる幼稚園から子供たちの声が聞こえ、賑やかさを感じます。境内には摂末社と史跡が多くあり、ゆっくりとお散歩を楽しめるんですね。境内入口の金色の龍の像も見事でした。御朱印は拝殿前のお賽銭箱の脇に書き置きがあり拝受致しました。一つ願掛けをさせて頂きましたので、成就の際はお礼参りに訪れたいと思います。
飯岡の町に鎮座しています。海の守りである金比羅様や大漁祈願など海に出る方にはとても大事な神様です。とても立派な神社です。
夏の日差しを浴びつつ参拝しました。晴れ渡る青い空に静粛な社殿を拝観していると、Adoかな?爆音を響かせながら1台のファミリーカーがやって来ました。場を弁えてほしいですね。自分さえ良ければ感では、神様も参拝に苦笑していた事でしょう。厳かな佇まいの神社にあって何様だょ!御朱印はスタンプラリーじゃないぞ!沿革などを読みその神社に思いを馳せなよ!だよ、文学歴史なんだからねぇ。プンプン!
| 名前 |
玉﨑神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ / |
| 電話番号 |
0479-57-2278 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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旭市の玉﨑神社⛩️です。御祭神は玉依毘売命です。玉﨑神社⛩️の公式HPによるとご由緒は、『玉﨑神社は、景行天皇十二年の御創祀と伝えられている。天皇の皇子、日本武尊が東夷征討の砌、相模より上総にお渡りになろうとして海難に遭われた際、御后弟橘姫命が「これは海神の御心に違いない」といって入水されたことで、無事、上総の国につくことができ、更に、海路葦の浦より下総玉の浦にお渡りになられた。そこで尊はその霊異を畏まれ、海上平安・夷賊鎮定のために玉の浦の東端「玉ケ崎」に海神玉依毘売命の神霊を斎き奉るによる。後世、「玉ケ崎」を「竜王岬」と言うようになったのは、海神を竜宮の神に付会して、竜王の鎮まり坐す崎と言うようになったものである。中世には下総國二之宮・玉の浦総社と称され、武門武将の崇敬厚く、平貞盛・源頼朝・千葉常胤等が参拝され、それぞれ祈願や奉賽のために奉幣や社殿の造営にかかわられた。しかし、竜王岬の欠損がはなはだしく、加えて、天文2年に兵火にかかって社殿は烏有に帰したので、現今の地に御遷座申し上げた。江戸時代に入って、上総國一宮(玉前神社)とともに九十九里浜を鎮護する神社として広く崇められ、佐倉藩主堀田氏・久留里藩主黒田氏等武人の崇敬はもとより、平田篤胤・平田銕胤・大国隆正等の文人が参詣している。この頃の飯岡は、九十九里の代表的な漁場として隆盛を極め、相模・三河・紀伊・伊予・阿波・和泉・安芸等の国々よりの移住者も多く、天保水滸伝に名高い飯岡助五郎もこの地に渡って社領地に住み、当神社の潮祭には一党を引き連れ参拝し、奉納角力を執行した。近年には、画家竹久夢二等も参詣し、「飯岡の明神様」として御神威赫々たるものがある。』と詳しく載っていました。私は本殿裏手に車を停めましたが、正面に大きな駐車場があります。一の鳥居⛩️、二の鳥居⛩️とくぐり参道左手には金色の龍がいました。正面には立派な拝殿があります。千葉県の指定有形文化財になっています。こちらの向拝の龍の彫刻を見たくて参拝に訪れました。江戸時代の名工である石田丹治栄貞の彫刻です。向拝の親子龍、向拝左右に阿吽の飛龍が迫力満点です。その他、いろいろと見所があります。本殿を囲うように「石塁」があり、この石はこの地の飯岡石(凝灰質砂岩)で造成されているとのこと。また、「天の石笛」という子宝石があります。享保3年(西暦1718年)頃、漁師の網にかかり奉納されたもので、石質は飯岡石(凝灰質砂岩)です。頭部に直径30cm、深さ40cmの溝穴があり、側面にも穴があって、風が吹き込み、妙音がした。漁師は、この音によって出漁を占い、霊石として祭祀されています。境内社も「三峯神社」「大漁稲荷神社」「八重垣神社」「金比羅神社」「助五郎稲荷神社」などがあります。海の帰りにでも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。