農作物を守る神社で五穀豊穣を願おう!
三把稲雷神社の特徴
農作物の守り神として有名な神社です。
五穀豊穣や地域安全を祈願する場所です。
かっこいいデザインの神社が魅力的です。
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さんばいねいかずちじんじゃと読みます。
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とてもかっこいい神社。(原文)Very cool shrine.
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| 名前 |
三把稲雷神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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【当社】(サンバイネイカズチジンジャ)は、農作物の守り神として五穀豊穣や地域安全を祈願されてきた。神社創建の時期は不詳ながら天正18(1590)年の改築記録から小田氏の創建と言われる由緒を持つ。【属性】は、参道・社殿は「南向き」である。「鎮守の森」に囲まれ、西側の緑が厚い。拝殿の屋根に5個の鰹木と外削ぎの千木1対が載る。【所在地】は、茨城県つくば市稲岡109(〒305-0071)である。〖稲岡(1)〗の地名は、「稲が採れる岡」、「稲を納める岡」から来ているのだろうか?。稲を作るには水利が必要であるが、岡は周囲より小高い場所を表すから、水を高い所から低い所に流す水利には不向きである。すると、後者の意味で命名されたのだろうか。当社の名称「三把稲」にも稲が入っている。したがって当地区は稲作に大きく関係することは疑う余地は無いと思われる。米の収穫後に各戸三把ずつ社に持ち寄り、今年の実りに感謝し祭りを催し、この一部を保管して飢饉に備えたのであろう。稲作は、開墾や用水という点で集団性を保有とする生業である。集落としての意思決定をする場が神社であった。時には集団の秩序維持のために処罰を行うためにも神社が使われた。「三把稲」は、北西方面からくる雷雲のことを意味するようです。〖稲岡(2)〗は、当地より北の筑波山山裾の臼井地区(つくば市臼井1番地1)に「飯名神社(飯名神)」が鎮座する。同社は、筑波山周辺で最古の由緒を持ち、「常陸国風土記」に信太郡の条に分社について記載がなされているので、これによれば同社の創建は8世紀以前に遡る古社となり、この分社もまた同様となる。茨城県神社庁神社台帳の登録住所は「臼井稲岡1番地」となっていることから、当社がその分社に該当するのかもしれない。ただし、一般的には、龍ケ崎市馴馬町(飛び地)の「女化神社(女化稲荷神社)」を挙げている。【創建】は、至徳2(1385)年、大干ばつの時、領主の小田氏によりなされたと伝えられる。 雨乞い、農作物の守り神として信仰を集めている。 以前(昭和30年代)は、日照りが続いたとき、雨乞いの神事も境内で行われていた。【祭神】は、「大雷神(オオイカズチノカミ)」で、神体は「三羽征箭富貴神尊像」とされているようだ。ちなみに、征箭(ソヤ、征矢)とは、「攻撃力の高い鏃(ヤジリ)を付けた矢」のことで、「三つ羽(ミツバ)の征矢」という表現があり、「3枚の矢羽をつけた征矢。また、非常に速いことのたとえにも使う。三つ立ての征矢」という定義である。名前からして稲光を神格化している表現である。伊邪那岐命は、伊邪那美命が亡くなって後に黄泉の国に彼女に会いに行き、会うことはできたがその後に彼女の体に蛆が這い、頭に大雷神が生じるなど八雷神が全身に着いている見て、恐ろしくなり黄泉の国から逃げようとして、黄泉比良坂まで八雷神に追いかけられたが、桃を投げて難を避けることができた。さて、祭神の大雷神をどこから勧請したのだろうか?。一説では当社は小田氏が建立したとされているので、小田氏の一族の豊田氏がつくば市上郷に「金村別雷神社」を京都の「賀茂別雷神社(カモワケイカヅチジンジャ)」から分霊を勧請して創建した例から賀茂別雷神社若しくは金村別雷神社から分社されたかもしれない。しかし、この祭神は「賀茂別雷大神(カモワケイカヅチノオオカミ)」であるので、大雷神と相違することになる。当地を含む小野川地区には鹿島神社が多い。同社の祭神は、日本書紀では「武甕槌神」であるが、古事記では「建御雷神」と表記されるから、後者の2文字を取ったのかもしれない。【関東三雷神】は、つくば市上郷の「金村別雷神社」(カナムラワケイカヅチジンジャ、カナムラベツライジンジャ)、茨城県水戸市の「別雷皇太神」(ベツライコウタイジン)、群馬県邑楽郡板倉町の「雷電神社」(ライデンジンジャ)の三社である。金村別雷神社は、承平元(931)年であり、中世に鎮座地の周辺地域で勢力を有していた豊田氏の初代領主である「豊田将基(トヨダマサモト)」が、霊夢に感応して京都の「賀茂別雷神社(カモワケイカヅチジンジャ)」から分霊を勧請して創建した。別雷皇太神は、第45代聖武天皇神亀元(724)年に常陸国守「藤原宇合(フジワラノウマカイ)」が勅命によって蝦夷征伐におもむく際、東北地方鎮護の神として京都の「賀茂別雷神社」の分霊を当地に祀ったことが当社の創始である。雷電神社は、関東地方の雷電神社や雷電社の事実上の総本社格とされている。主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神である。したがって、祭神から判断すると、前二社が賀茂別雷大神なので、雷電神社が近い存在であると推測できる。しかし、どんな繋がりがあるかは不明である。【日待塔】の大変古い石造物が、境内地の西南端一画に立っている。同塔は、脇にある説明石碑によると、文禄4(1595)年建立で、日本で二番目に古い(かつては『日本で一番古い』となっていたのが、その後、さらに古いもの(下記参照)が見つかり二番目になったようです)。また「日待信仰」とは、説明碑によると「決められた日の夜に神仏に礼拝し、翌日の日の出を拝む太陽崇拝に基づくもの」とのこと。「六字名号日待供養塔」(伊勢市二見町今一色町)この供養塔は高さ89センチ、幅32センチの緑色変岩板碑で「南無阿弥陀仏」の六字名号と「日待供養」「丙戌十月八日」と文字が刻まれています。上記の「丙戌」は、天正4(1586)年に当たり、現在では日本最古の日待供養塔である。【神紋】は、拝殿前の石灯籠や屋根の大棟・瓦に確認できるが、「三葉の立葵」、「五三の桐」と見えるが、力量不足なので断言はできない。【神木・朱印】は、未確認である。【接道】は、国道6号線バイパスのイオンモールつくば店前の信号を南(イオンモールの反対側)に入り、道なりに進み変則十字路を右折する。さらに走ると、国道6号線との隧道の手前の右手に当社の鳥居が見えてくる。なお、先程の交差点信号から少し先の右手の細道に入ると、前方に当社の鎮守の森が見えてショートカットすることができる(幅員が狭いので対向車に要注意)。【駐車場】は、当社の境内地の一画(東側)に「稲岡農村集落センター」があるので、ここの駐車スペースを借用するのが得策である。【トイレ】は、未整備であるので、ここに来るまでにコンビニ等で用を済ませてくるのがベストである。(訪問日令和5年12月5日(火))