大阪天満宮で延命長寿を祈願。
霊符社の特徴
厄除けや延命長寿に効果がある神社で、特別な御祭神を祀っています。
天御中主神は天地創造の神で、日本神話の重要な存在です。
大阪天満宮の敷地内にあり、心安らぐ特別な雰囲気を感じられます。
2023年10月末に訪問。大阪天満宮の境内社の一つ。境内社ですが、造りは立派な感じでした。
厄除けや延命長寿の神様です。
大阪天満宮境内、鬼門に位置するお社です。天之御中主様をお祭りしています。ここには静かで強いエネルギーが流れています。いつも黒猫さんが二匹、社殿の中で戯れています。
御祭神は、日本神話における天地創造神の一柱。
陰陽道最高の神であり、北辰(北極星・北斗七星)を表す神である。
祭神の天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は天地の初め、高天原に最初に出現した天地創造の神。
天神さんの後ろに鎮座されているアメノミナカヌシ様。この度は眷属?にも合わしていただきました。おかげさまで笑顔になって帰宅さしてもらいました。
天御中主神/天地創造の神です。
御紳祭の天御中主神は天地の初め高天原に成りませる天地創造の神である節分当日に願主の延命長寿の鎮魂祈祷を奉仕する。
| 名前 |
霊符社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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大阪天満宮を参拝するなら、本殿の裏手、境内北東側に鎮座する霊符社にもぜひ足を運んでいただきたいと思います。現在は天御中主神をお祀りする小さなお社ですが、その由緒は「『古事記』の冒頭に現れる天地創造の神を祀る社」という説明だけでは到底収まりません。神道・仏教・道教・陰陽道、星辰信仰、さらに大阪の門前町文化までが幾重にも重なった、大阪天満宮の中でも特に奥深い場所です。まず知っておきたいのは、この土地には大阪天満宮が創建される以前から大将軍社があったということです。大阪天満宮の由緒によれば、白雉元年(650)、難波長柄豊崎宮の西北を鎮めるために大将軍社が祀られ、延喜元年(901)には大宰府へ向かう菅原道真公も参拝したと伝えられています。その後、天暦三年(949)に大将軍社の前へ天満宮が創建されました。つまり、この場所は菅公信仰だけで成立したのではなく、もともと方位や災厄を鎮める信仰を基層に持っています。霊符社は、その境内に後世加わった、もう一つの鎮護信仰の社と見るべきでしょう。霊符社で歴史的に祀られてきた神格は、「太上神仙鎮宅霊符神」、略して鎮宅霊符神と呼ばれます。「鎮宅」とは家宅に及ぶ災いを鎮めること、「霊符」とは神秘的な効力を託された符のことです。近世日本では、中国道教系の鎮宅霊符神、北極星や北斗七星をめぐる北辰信仰、仏教の妙見菩薩、そして神道の天御中主神が重ね合わされながら受容されました。したがって、この神を単純に「中国の神」あるいは「『古事記』の神」のどちらかに割り切ることはできません。神仏習合の時代に形成された、非常に複合的な神格です。大阪天満宮史料室編『大阪天満宮史の研究 第二集』所収、若林喜三郎「大阪天満宮内鎮宅霊符社史序説」によれば、江戸前期の霊符神は、初めから一般参詣者のための末社として存在していたのではなく、大阪天満宮の神主家である滋岡家の屋敷神に近い存在でした。滋岡家二代の滋岡長祇は「霊符社之辺」に隠居し、鎮宅霊符神の奉斎に深く関わったとされています。大きな転機となったのが、享保十三年(1728)です。霊符神の開帳をめぐって、神主と他の社家との間に相論が起こりました。開帳とは、普段は秘されている神体や霊宝を一定期間公開し、参詣者を集める行為です。この争いは単なる祭祀上の対立ではなく、誰が霊符神を管理し、その信仰と参詣者を掌握するのかという、神主家の権限や境内経営をめぐる問題でもありました。こうした過程を経て、滋岡家の私的な屋敷神に近かった霊符神は、広く民衆の参詣を受ける公的な信仰対象へと成長していきます。長祇の死後、霊符社の祭祀は「勤番」と呼ばれる専任神職に委ねられ、享和元年(1801)には神原河内介が勤番に就任しました。神原は、宝永五年(1708)に刊行された鎮宅霊符信仰の代表的教典『鎮宅霊符縁起集説』を後に再版しています。同書には、鎮宅霊符神の縁起、祭祀法、七十二種の霊符などが収められ、再版本には「大坂天満天神社内・霊符社頭・神原河内介」と記されています。大阪天満宮の霊符社は、単に神を祀るだけではなく、鎮宅霊符の教説や符法を伝える発信地でもあったのです。なお、信仰の成立年代と現在の建物の年代は分けて考える必要があります。大阪天満宮は享保九年(1724)の妙知焼け、さらに天保八年(1837)の大塩平八郎の乱による大火で全焼し、現在の本殿は天保十四年(1843)の再建です。したがって、現在の霊符社の小社殿そのものを江戸前期以来の建築と見ることはできません。建物は再建されても、祭祀と信仰の系譜が受け継がれてきたと理解するのが適切でしょう。この霊符社と深く結び付いているのが、現在「霊符通り」と呼ばれる道です。古い史料では主に「霊符筋」と記されます。大阪市文化財協会の発掘調査報告では、霊符筋を「大阪天満宮境内の東端にある霊符社から東に延びる道路」とし、『北区誌』も天満宮東門から東へ延びる道で、その名は境内の霊符神に由来するとしています。つまり、霊符筋という名は「霊符を売る店が並んでいたから」ではなく、霊符社へ通じ、霊符社の側から町へ延びる道だったことに由来します。霊符社が屋敷神から公開の信仰施設へと成長すると、その名は境内の外にも広がり、周辺は「霊府」あるいは「レイフ」と呼ばれるようになりました。『精選版 日本国語大辞典』は「霊府」を、大阪天満宮境内東側の鎮宅霊符神祠のあった所と説明し、その周囲に娼家があったこと、寛保四年(1744)の雑俳にすでに用例があることを記しています。享保十三年の開帳相論から十数年後には、「霊府」が町の呼称として定着していたことになります。若林論文にも「霊符茶屋の盛衰」という章があり、霊符社と門前の遊興空間が切り離せない関係にあったことが分かります。神聖な霊符の神と、茶屋や娼家を含む歓楽街が隣り合っていたことは、今の感覚では不思議に映るかもしれません。しかし江戸時代の大社寺は、祈願、開帳、見世物、芝居、飲食、遊興が重なり合う都市の中心でした。霊符筋は、霊符社の信仰が境内の内側から街路、商い、娯楽、町の呼称へと広がっていった歴史の痕跡です。現在、霊符社では天御中主神が祀られ、毎年二月三日には霊符社鎮魂祭が行われています。目立たない小さなお社ですが、その背後には、大将軍信仰、北辰・妙見信仰、道教系の鎮宅霊符、神主家の屋敷祭祀、開帳による大衆化、そして門前町の形成までが折り重なっています。大阪天満宮を「学問の神様」だけで理解しないためにも、霊符社に参拝した後は、ぜひ東門から霊符筋へ歩いてみてください。境内の小さなお社と、現在の町を走る一本の道が、かつては一続きの信仰と都市文化の中にあったことが見えてきます。